02 無事でいて
「神女見習い」
リチェリンの素性を聞いたピニアははっとした。
教会で神女を目指していたのであれば、これまでも清い暮らしを心がけてきたことは想像に難くない。
そこに受けた、恥辱。
経験があろうとも、力づくでの行為は怖ろしいものだ。何も知らない身であれば、どれだけか。
「――ごめんなさい」
何を言ったらいいか考えるより先に、ピニアの口からは再び謝罪が出ていた。
「え」
リチェリンは驚いて目をしばたたいた。
「何も……できなくて」
「いえ、あの」
リチェリンは首を振った。
「ええと……その」
躊躇いがちにリチェリンはもう一度、オルフィに対して言ったように、誤解があることを告げた。
「私……何も、されていません。確かに、その、ああして服を剥ぎ取られはしましたけれど……あの」
どう話したものか惑いながらリチェリンはうつむいた。
「その、あの男は……神子には、処女性が大事であるから、と」
清純な娘であれば口にするだけでも顔が熱くなる思いだ。
「ああ……そう、だったの」
ピニアはほっとした顔を見せた。
「せめても、だわ」
「あの!」
リチェリンはさっとピニアの手を取った。
「わ、私こそ、何もできなくて」
「え?」
今度は占い師が戸惑った。
「あの……あいつは私を脅すために、自分にどんなことができるか……語ったので」
あまりはっきり言えず、娘は口ごもった。「あなたが何をされたのか知っています」とは――言いにくい。
魔術師はまるで講義でもするように話したのだ。支配の陣の上で純潔を奪われた女魔術師は、その後、縛りの術を生涯受け続けるも同然だと。本人の意に沿わぬこと、たとえば親兄弟や友人、恋人を殺害するというような怖ろしいことでも、施術者が命じれば逆らえないのだと。
「黙れ」「下がれ」「手を出すな」、ピニアの心がどれだけ憤り、従いたくないと思っても、契約の魔術は彼女の感情などお構いなしだ。黙って下がり、じっとしているほかにない。
「私にも……違うやり方で縛りの術をかけてやると、脅されました。とても強い魔力も見せつけられて……手足の自由を奪われ、口を利けなくされました。私は、私自身もですけれど、オルフィや村の人たちの身に何かあったらと思うと……怖くて」
そう、とても怖ろしかった。
ラスピーに押さえつけられたときの恐怖を思い出した。あのとき彼女は、頭ではなく身体で、男の力にはどう抗っても敵わないものという現実を理解した。
ラスピーの目的は彼女の貞操ではなかったが、それでもそう思わせるに十二分すぎる行為だった。そしてコルシェントは、明確に「敵」だった。
神女見習いの娘は博愛的な精神を持っていたが、「どんな悪人でも許す」と言えるほどの修行は積んでいない。
ピニアの様子を見れば判る。コルシェントは、他者を虐げて支配することを何とも思わない、いや、それどころか悦びさえ覚える類の人物だ。ただの娘が、怖れずにいられようか。
魔術かそれとも腕力だったのか――細く見えても男だ――、彼女はろくに抵抗もできぬまま衣服を全て剥ぎ取られ、恥辱を味わった。男もまた彼女を神子と呼び、違うと言っても聞いてもらえなかった。
そして自分に力を貸せと。
湖神を目覚めさせよと。
意味が判らない、自分にそんなことはできないと叫べば殴られ、魔術で黙らされた。そして魔術師は彼女を脅したのだ。
ジョリスを愛しているピニアが何故コルシェントに従うか。魔力ある女が必ず持っている危険な陥穽に、彼女は落ちたのだと。落としたのはほかでもない彼だが、一度落ちたからには二度とはい上がれないのだと。
リチェリンの身体は汚さないと言った。神子には処女性が大事である可能性が高いからと。
だがその代わり、自分の言葉に従わないのであれば、もっと怖ろしい目に遭わせてやると男は言った。
彼女が、彼女の意思と関わりなく、大事な人々の背中に短剣を突き刺すよう、命じてやると。リチェリンがそんなことをするとは夢にも思わぬ彼らは、容易に血の海に沈むだろうと。
それは怖ろしい想像だった。自分がそんな真似をするはずがないとは言えなかった。たとえ契約などなかったところで、魔術師が彼女の身体を支配して短剣を握らせ、誰かに襲いかからせることは簡単なのだと判ったからだ。
怖かった。一糸まとわぬ無防備な姿でいるところにかけられた強烈な脅し。もしかしたら恐怖を増幅させる魔術などもあったのかもしれない。何であれリチェリンは確信した。
この男に逆らえば、ニクールたちカルセンの村人が――オルフィが、彼女自身の手によるかどうかはともかく、必ず傷つけられる。
彼女に絶対的な恐怖を植え込んで、魔術師は彼女を部屋に放置した。湖神を蘇らせる方法を早く見つけるようにと言って。
そんなもの、判るはずもないのに!
――話せる限りのことを話して、リチェリンはうつむいた。ピニアは何ひとつ、口を挟まなかった。
その代わり、彼女が口をつぐむと立ち上がり、再び彼女を抱き締めた。
ひとりの男に対して恐怖を抱く者の、それは哀しみに満ちた抱擁であったかもしれない。
しかしリチェリンは、少しだけ緊張がほぐれるのを感じた。
(そうだわ)
(オルフィも、抱き締めてくれた)
彼女が乱暴をされたと思ったのだろう。そう思ってもおかしくない状況であったし、しばらく彼女自身混乱をしていて、誤解を正すことなど考えもつかなかった。と言うより、十二分に恐怖を与えられていたのだ。
何の経験もない若い娘にとって、望まぬ男に裸にされ全てをあらわにされたというのは、肉体的に貞操が無事だったところで「何でもなかった」とは言いがたい。彼女の受けた衝撃は、オルフィが考えたように大きかった。
(大丈夫だ、と抱き締めてくれたのに)
(私はろくに返事もできなくて)
(彼が……私の手を必要としているときに、離れてしまった)
オルフィを傷つけるとの脅しに屈してコルシェントの指示に従うことが、彼を危険に残すことになったという矛盾。
(カナト君)
動かなくなった少年のことを思う。
彼女自身はほんの少し言葉を交わしただけだったけれど、オルフィがどんなに彼を大事に思っていたかよく判る。あれだけ哀しんでいたオルフィをあのとき自分こそ抱き締めてあげるべきだったのに。
(――オルフィ)
(どうか無事でいて)
繰り返す願い。祈ることしかできないもどかしさ。彼女を助けにやってきてくれたオルフィのように、彼女も彼を助けに行きたいのに。
(ああ、神よ)
そのとき、明瞭な祈りに対して明瞭でないものがそこにあった。
彼女自身はそれに気づいていなかった。
リチェリンが祈ったのはムーン・ルーであったのか。
それとも。
「あら、これは?」
ふとリチェリンは床に落ちていたものに気づいた。
「何かしら」
「それは」
ピニアははっとした顔を見せた。
「湖神の守り符。何故こんなところに」
それはカナトがオルフィに託した、鋳物の守りだった。意識を失わされてオルフィはそれを落としたが、幸いにしてと言うのか、ハサレックもコルシェントも気に留めることなく、そのままこの部屋に残っていた。
「湖神?」
聞き慣れたとは言えないものの何度も聞かされた言葉。リチェリンも目を見開いた。
「カナト君の、ものだったのかしら……」
「エクールと関わりのある子だったの?」
「ど、どうでしょう」
何も知らない。カナトのことは。
「少なくとも、南西部の村の子だったはずですけれど」
「それなら畔の村のものが巡り巡って彼の手に渡ったのかしら。不思議ね」
エクールの女は目を細め、見えないものを見るかのようにしたが、死んだ少年の真実を星が語ることはなかった。
「オルフィに……渡します」
呟いてリチェリンはその守り符をそっと撫でた。
(これが、湖神の守り)
(どうしてかしら。私の神女見習いとしての知識は、これを聖なるものだとは言わないのに)
(何だか知っている気がする……これが大事なしるしであることを)
(――そんな。知っているはずがないわ)
彼女は否定した。
(いろいろな人に言われたせいで、そんな気になっているだけよ)
(そうよ。そうに決まっているわ)
無闇に否定する気はない。だが、彼女が神子だなんて有り得ないではないか?
一瞬訪れた奇妙な感覚に首を振り、リチェリンは守り符をしまった。




