05 最期まで
『――オルフィ』
カナトの声が頭のなかに響いた。わずかに、袖口を掴むカナトの力が強まる。彼ははっとした。
『どうか、聞いて下さい。あなたのなかにいる誰か……それはあなたでもありますが、『オルフィ』じゃない。そこを見誤らないで』
「なに……何を言って……」
『籠手を信じて。それはあなたの味方です。ラバンネルは……ラバンネルとアバスターはあなたにそれを託した。彼らはあなたを信じています。あなたは彼らを知らずとも、彼らは知っていて……』
「そ、そんなことはどうでも」
『聞いて。大事なことなんです』
耳に聞こえる声ではないのに、焦燥感が伝わった。オルフィは口をつぐんだ。
『彼らが知るのは過去のあなたなのかもしれない。でも、彼らはその過去のあなたにいまの『オルフィ』を支配させるつもりはありません。彼らを信じて』
「……判った」
正直に言うならば、何の話だかぴんとこなかった。だがオルフィはうなずいた。それで少しでもカナトが安心するならば。
「判った。お前の言う通りにする。だから」
オルフィはそっとカナトの頭を撫でた。
「安心、しろ」
そう言うと、少年が少し笑ったように見えた。
『ああ、そうだ。これもひとつ、お願いします』
「何だ。何でも言えよ」
『お師匠に……ごめんなさいと伝えて下さい。不肖の弟子で……まだ、教わることもたくさんあるのに』
「おかしなこと、言うな! お前はこれからまだまだ、教われるだろ!」
『ふふ……おかしなことを言っているのはオルフィの方です。いえ、有難うございます。でも僕は、もう』
「カナト!」
『右の懐に、僕のお守りがあります。あなたのものに、して下さい』
「おい……おかしな、ことを……」
『――さよなら、オルフィ。あなたに会えてよかった。ああ……僕、魔力があって、よかったな。こうして最期の最期まで、話が……』
声が、途切れた。
少年の、緑色をした両眼から、光が消えた。
袖口からカナトの手が離れ、ぱたりと落ちた。
「カナ……」
オルフィの声が震えた。
「カナト……」
完全に、少年の身体は動かなくなった。そこから命の火は消え去り、カナトの身体はもう、カナトの形をした物体でしかなくなった。
オルフィはもう一度それを抱き締め、血がにじむほど強く唇を噛んだ。
いったいどうして、こんなことに。
『お守りが』
『あなたのものに』
最後までオルフィを案じるカナトの言葉。
そんなものは、ほしくない。友の――形見だなんて、認めたくない。感情はそう言った。
しかし、その気持ちを無にもしたくない。わずかな理性が震える手を動かし、少年の右の懐を探った。
(こいつは例の、エクール湖の)
(うん?)
ミュロンがカナトに渡した、あの鋳物の守り符。一瞬そう思ったオルフィだったが、少し違う気がした。
(重い……?)
湖の畔で彼が手にしていたときより、それは重かった。しかし別のものとは見えない。ただ何だか、重さのほかにも違和感が――。
「もう済んだか?」
コルシェントが鼻を鳴らした。
「お前を救おうと飛び込んできたようだが、無意味だったな。犬死にだ」
「何だと」
非情な言葉にオルフィはかっとした。
「いや、そうでもないな」
ハサレックが呟いた。
「戦力としては明らかにあちらが上だ。だが籠手と繋がり、使いこなしはじめているのはこちらのようだ。そのことが判っただけでも価値があったと見ていい」
「……何だと?」
魔術師は顔をしかめた。
「いや、何でもない」
ただの独り言だと騎士は肩をすくめた。
「この子供にとっては価値のあることだったのだろうと。もっとも命を賭けるまでのことかどうかは判らないがな」
「あんた……」
そこでようやくハサレックの姿を認め、オルフィは呆然とした。
「あんた、青銀の……ハサレック、さま……?」
血に塗れた細剣を持って立つ、濃い茶の髪をした三十前後の男。それは確かに〈青銀の騎士〉の制服を着ている。
(ハサレック様が、カナトを)
憧れの、ナイリアンの騎士が。
(そんな馬鹿な)
まるで酷く悪い夢。強く瞳を閉じて開いたら、そこは寝台の上なのではないか。
いや違う。判っている。これは現実だ。
「殺すつもりはなかったが、仕方ない。ああして飛び込まれてはな」
言い訳ともただの説明とも取れるような言葉。少なくともそこに、詫びや悔恨の気持ちはない。
「殺した子供が今更ひとりふたり増えたところで変わらんだろう」
コルシェントが言った。
「何……?」
はっとした。オルフィのなかで、何かが繋がった。
(劇的な帰還)
(半年前から行方不明だったハサレック様と、半年前から噂になり出した黒騎士)
(――まさか)
「どうした?」
ハサレックは口の端を上げた。
「何か、思い当たることでも?」
そしてかすかに笑った。
「あんた」
オルフィの声は震えた。
「俺は、あんたを知ってる」
「ほう?」
「あんたが俺の前に現れるのは……三度目だ」
一度目は暗い街道で。二度目はモアンの町で。どちらのときもこの男は黒いマントを身につけ、黒い剣を持っていた。
オルフィを脅し、組み合ったあの黒騎士。それはこの、目の前の男だ。
あのときは兜の面を下ろしていたが、間違いない。
「成程、気づいたか」
ハサレックはにやりとした。
「余計なことを知りすぎると早死にするぞ?――ジョリスのようにな」
「て、てめえ!」
これが黒騎士だ。ジョリスを殺した男だ。確信するとオルフィはばっと立ち上がった。
「お、もう一度仕切り直しか? かまわんぞ、俺は」
ハサレックはカナトの血が付いた細剣を再びかまえた。
「オルフィ……」
そのとき、かすかな声がした。
「リチェリン」
白い掛け布をまるで長衣のようにまとい、寝台の脇に佇む娘がいた。
「それは、カナト、くん?」
片隅でずっと身を固くしていた彼女だったが、オルフィの叫び声に尋常でない事態が起きていると気づいたのだろう。真っ白な顔で健気にも立ち上がってきた。
「いったい、何が……?」
「リチェリン」
オルフィはハサレックとの対峙をやめ、リチェリンのところへ向かうと手を差し伸べた。
「私は大丈夫よ……有難う、オルフィ」
気丈にも笑みを浮かべるが、かすかに引きつっていた。魔術師がそこにいることにも気づいているだろう。
何を言えばいいのか。
守りたいと思ったのに、叶わないまま。
リチェリンも。
カナトも。
「リチェリン……」
何を、言えばいいのか。
「カナト、が」
彼はそれ以上言えなかった。どんな説明もできなかった。
だが言葉がなくとも、その場を見れば判らないはずがなかっただろう。
怖ろしい血の海。そのなかに横たわる、ぴくりとも動かない少年。
「……祈りを」
神女見習いは呟いた。
「本当ならば、まだその資格はないのだけれど……」
祈りを捧げて死者を送るのは、見習いの役割ではない。それでもせめて導きをと、彼女は薄布をローブのようにまとったまま、カナトの傍らにひざまずいた。
「必要ない」
魔術師が非常な声で言うと、彼女はびくりとした。
「リチェリン、お前はそうだな、ピニアのところに行って服をもらってくるといい。そのままではみっともないからな」
彼女の服を破り捨てた男がそう言った。
「てめ……」
オルフィの怒りが再燃した。
「――駄目」
リチェリンはそっと幼馴染みの腕を掴んだ。
「駄目。危険な真似は、しないで」
「な、何言ってるんだよ」
「お願い、黙って。私は、大丈夫だから」
彼女は顔を伏せ、懇願するように言った。
「いい子だ」
コルシェントはふっと笑った。
「さあ、行け」
「はい……」
頭痛をこらえるようにきゅっと眉をひそめ、だがリチェリンは小さくうなずいた。
オルフィには理解できなかった。何故、言いなりに?
「あの、あのね、オルフィ。わた、私、何もされて、ないから」
うわずった声で彼女は小さく言った。
「え?」
「だ、だから、その……誤解、しないで、ね?」
そう言った彼女の肩は震えていた。
(――本当に?)
(でも、こんなに、あいつを怖れてる)
酷いことをされたから怯え、従うのだとしか思えなかった。
「服を……借りてきます。でもどうか、祈りを捧げさせて……」
魔術師の方を向いた彼女だったが、顔は伏せたままだった。
「いいだろう。ただしその後に遺体を処理しろ。不埒な侵入者としてな」
「そんな……!」
「何もそこまでしなくてもいいだろう」
ハサレックが口を挟んだ。
「ジョリスと違って、根も葉もない。そこまで死者を貶めるのは好かない」
「ふん。今更、善人ぶるのか?」
「いいや。せいぜい、死者の怨念が重くなってきたってところさ」
黒騎士の姿で子供たちと親友を殺してきた男は軽い調子で言った。
「私とピニアに面倒がかからなければ何でもかまわん」
本当にどうでもいいようにコルシェントは手を振った。
「とりあえず、こいつを少しきれいにしてやる必要があるな」
ハサレックはオルフィを指した。
「それから着替えさせて……気の毒だが、お前には生け贄になってもらう」




