02 守るためだった
ほう、と嘲笑うような声が聞こえた。
「面白い」
彼はぱっと振り返り、その人影を認めると娘から手を放して勢いよく立ち上がった。
「お前がアイーグのオルフィだな?」
そこに立っていたのは黒ローブ姿の男。三十代半ばほどで、ひょろりと長い印象がある。そのローブの色さえ考えなければ、一見したところ、何の害もなさそうな人物という感じだ。
だがその榛色の両眼は、このとき不気味に光っていた。ジョリスやキンロップ、レヴラールらの前で隠し通していたものが、このときあらわになっていた。
「ニイロドスの言う〈籠手の主〉……ふふ、どうしてそれを手にしたにせよ、田舎の若造が分不相応にもただ身につけているだけではないか。主などとは片腹痛い」
「てめえ……」
オルフィもまた、褐色の瞳を怒りに燃やしていた。
「殺してやる!」
「私を殺すと? いったい、どうやって?」
黒ローブの魔術師は両腕を組み、理解の遅い教え子を諭すような口調で尋ねた。
「お前ごとき、簡単な術ひとつで息の根をとめてしまえる」
魔術師は薄く笑って指をぱちりと弾いた。
「だが少々、協会が面倒だ。気を失わせたくらいのことであれば自衛だったの一言で済むが、殺したとなればそうもいかないからな」
「こいつ」
それらの言葉をオルフィはほとんど聞いていなかった。目前の男がリチェリンを辱めたのだと判断した瞬間、彼は魔術師に飛びかかった。
「てめえがコルシェントか。いや、名前なんかどうでもいい!」
それは無謀というものだった。魔術師が口の端を上げて片手を振れば、オルフィは体術の名手と組み合ったかのように投げ飛ばされた。
「はは、運がよかったな」
コルシェントが笑ったのは、彼が寝台の上にごろんと転がる形になったからだ。その不格好な体勢はふざけてでもいるように見え、可笑しかったのだろう。
「くそっ」
オルフィにしてみれば笑うどころではない。ますます頭に血が上った。
「よくも、リチェリンを!」
「成程、それで憤っているのか。籠手を持ち逃げしていた若造が神子の貞操を守ろうとはな、思わぬ関係があったものだ」
「リチェリンは神子なんかじゃない」
うなるように彼は言った。まさしくそれは狩猟犬か、或いは狂犬のようだった。
「生憎だな、どんな主張をしようと間違いがない。あとは早く、力を発揮してもらうだけだ」
「ふざけんな! 彼女には、どんな力もない!」
「あるのだ、いまだ顕現していないとしてもな。さあ――リチェリン」
「気安く呼ぶなっ」
魔術師が何を続けようとしていたにせよ、飛びかかったオルフィを無視して話すことはできなかった。
「チッ」
舌打ちしてコルシェントは再びオルフィを魔術で払う。今度は寝台の上とはいかず、彼の身体は床に叩きつけられた。
「じっとしていてもらおうか」
魔術師が指を真横に動かすと、若者はびくりと身を強ばらせた。
何も怖れたのではない。いまの彼に怖れなどは存在しない。まるで伝説の狂戦士のように怒りだけを感じ、目の前にいる「敵」を全て屠るまでとまりそうになかった。
だがそれが、とまったのだ。
強靱な戦士が数人がかりで押さえつけたかのように、彼の動きはとめられた。
魔術だということはすぐに判った。これまでこのような術をかけられた経験がなくても間違いようがなかった。
「く、くそ……」
「それでいい」
魔術師はふふっと笑った。
「大人しくなってもらったからには、少し話をしよう。お前には尋ねたいことがあった。神子を手に入れたのちに探し出すつもりでいたが、〈油をかぶって火に飛び込む〉という言葉を実践してくれて有難いことだ」
「ふざけるな」
ぎりぎりとオルフィは歯ぎしりをした。
「お前と話すことなんか無い」
「その籠手はジョリスから渡されたのだな? 何故だ?」
「知るかっ」
怒鳴るようにオルフィは言った。彼としては答える気などないのだが、これは実際に答えでもあった。彼自身はその理由をいまだによく判っていないからだ。
「――ジョリス様」
それから彼は低く呟いた。
「ジョリス様を……殺したのか」
「何?」
「お前がジョリス様にアレスディアを渡して、黒騎士に殺させたのか!」
「……何だと」
コルシェントの目が細められた。
「どこから……その話を」
これはコルシェントには想定外だった。彼にしてみれば、オルフィがそれを知るはずなどないのだ。
「本当、なんだな」
少なくとも魔術師は否定しなかった。オルフィ「ごとき」に言い訳をする理由もないからだ。
だが――。
「余計なことを知りすぎた子供には仕置きが必要だな」
コルシェントはオルフィを指差した。
「いますぐ……いや、ここよりも相応しい場所がある」
そして手をひねり、一本の指で何かを持ち上げるような仕草をする。と、オルフィの身体は宙に浮いた。
「な」
彼はもがいた、いや、もがこうとしたがろくに動くことができなかった。
「お前にも〈ドミナエ会〉の服を着せてやろう。ハサレックの前にばかり賊が現れるというのも妙だが、籠手の奪還をほかの者の手柄にはできんからな」
「ハサレック……様?」
オルフィはまだ、ハサレック・ディアに疑いを抱いてはいなかった。その帰還が「劇的すぎる」というイゼフたちの話を聞いても、ハサレックその人はナイリアンの騎士――ジョリス同様、オルフィの尊敬の対象だ。
いまでもそれは同じだった。オルフィにはコルシェントがハサレックを利用しているとしか思えなかった。
「本当に、許せねえ」
彼は低く呟いた。
「全部、てめえが! 全部、悪いんじゃねえか!」
「うるさい口だ。私の質問に答える気がないのなら、ふさいでおいてやろう」
魔術師は肩をすくめて指を動かした。その瞬間オルフィの舌は凍り、意味のある言葉を紡げなくなった。
「実に都合よく飛び込んできてくれたものだ。これで仕上げになる。エクールの神子、〈閃光〉アレスディア、これらの力を手にすれば私は安泰だ」
くくく、と男は満足そうに笑った。
「残りの黒騎士をも退治し、新たな『英雄』の勇猛が国中に轟き渡る。我ながらよい演出だ」
(残りの黒騎士、だって?)
(どういうことだ)
まるでオルフィの心を読んだかのように、コルシェントはまっすぐ彼を見た。
「お前だよ、アイーグのオルフィ。お前がジョリス・オードナーを殺害した黒騎士として、これからハサレックに退治されるのだ」
楽しげにコルシェントは宣告した。
オルフィは驚いた。
自分にまだ、怒りの余地があったことに。
(こいつ)
(俺をジョリス様の殺害犯に仕立てようってのか!)
頭が痛くなるほど、彼の感情は激しくなった。息も苦しくなった。
魔術によって彼はうめき声ひとつ出すことができなかったが、そうでなかったとしても投げる言葉ひとつ浮かばず、ただ怒りに支配されたろう。
その強烈な怒りのために、オルフィは考えられなかった。
では、本当にジョリスを殺害した「黒騎士」は誰なのか、とは。
「感謝するといい。お前の名は後世に残るだろう。それとも、残らぬかな。ヴィレドーンがただ『裏切りの騎士』と呼ばれるように」
(ヴィレ……ドーン)
その名が届く。「彼」の耳に。
(裏切りの騎士ヴィレドーン。〈漆黒〉の座にあった)
(〈白光〉のファローを殺害し、国王をも弑した)
(悪魔と契約し、傭兵を使って国を乗っ取ろうと)
「――違う!」
そのときである。「彼」の口から声が出た。驚いたのはコルシェントだった。
「何!?」
「メルエラの仇討ちと、それからエクールを守るためだった! 正当な手段であったとは言わない、咎人とされるのは当然だ、だが俺は、権力を欲した訳じゃない!」
ぱぁんと何かの弾けるような音がした。彼は十数ファインの空中から落ちたが、難なく均衡を保った。
「術を破った? まさか」
魔術師は若者が何を言ったかよりも、術の縛りから脱出したことにただ驚愕し、それからはっとした表情を見せた。
「アレスディアか!」
コルシェントの行き着いた答えは、完全なる正解とは言えなかっただろう。だが事実の一端でもあった。
彼の左腕に巻かれていた包帯はいつしかほどけ、青く壮麗な籠手はかすかに光を発していた。
「だが、馬鹿な。お前ごときに使いこなせるはずがない」
「はっ、俺を誰だと思っている?」
彼は鼻で笑った。
「この籠手にどんな力があるのか知らんが、使いこなしてみせるさ」
左腕を身体の前におき、まるで見せびらかすようにしながら彼は言い放った。
「お前は」
コルシェントは眉をひそめた。
「――誰、だ?」
「それはこっちの台詞だ」
彼は言った。
「お前は誰だ。ここで何をしている。……いや」
続けて彼、ヴィレドーン・セスタスは呟いた。
「ここは、どこだ?」
(まただ)
(また、記憶が途切れている)
「彼」は思った。
(橋上市場にたどり着いたところまでは覚えている。子供に声をかけられて……)
(そのあと、気がついたらまた違う場所にいて、誰かと話をした)
(〈赤銅の騎士〉を名乗る、見覚えのない男)
(それから)
(あのあと俺は、どうしたんだ?)




