01 目障り
あれは――いつ頃のことだったろうか。
最初に耳にしたのは、単なる噂だ。噂ですらない、陰口の一種と言えたかもしれない。
「目障りでいらっしゃるだろうよ」
話していたのは、上級貴族の使用人たちだった。王城で行われた定期会議のあと、使用人たちは主人から聞いた話について、無防備にも戸を開け放した小部屋で喋り合っていた。
彼はたまたまそこを通りかかったのだ。本当に、たまたまだった。
「何でも収穫祭の賑やかしに、特別な神子とやらをご所望だったんだそうだ。だがきっぱり断られたんだと」
「何だって? 陛下のご命令だろう?」
「まあ、丁重にごまかしはしたんだろうさ。ほかの神様の神事を行う神子を行事に出せば神界神の機嫌を損ねると言うような」
「ありそうだな」
相手は「そんなふうに言ったことがありそうだ」とも「神の機嫌を損ねることがありそうだ」とも、どちらとも取れる返事をした。
「それでご立腹なのは陛下だけじゃない。祭司長様も自分の取り仕切る祭りを軽視されたと考え、もとより宮廷魔術師殿は予言の真似ごとをする連中が気に入らない」
「全員の意見が一致したってとこか」
「その通り。近い内に、大変なことがきっとあるぜ」
にやにやと使用人は言った。
「だがまさか、皆殺しなんてことにはならないだろう。野蛮すぎる」
「判らんぞ。最近、傭兵を増やしただろう。国境警備を強化するためって話だが、それなら何で東の砦に集めてる?」
「東?」
「そうさ。警戒するならヴァンディルガ。西だ。だが傭兵は東に集められてる」
「ラシアッドに不穏な動きが?」
「まさか。あの小国がナイリアンに喧嘩なんか売るもんか」
「それじゃ、いったい?」
「だから、ラシアッドの手前には何がある――?」
鼻をぴくりとさせて得意気に言ったとき、その使用人は扉の向こうに彼がいることに気づいた。そこではっとしたように口をつぐみ、下世話な噂話などしていなかったふりで丁重な礼などした。
彼は問い詰めなかった。黙ってその扉を閉め、暗に雑談を諫めた――だけのようなふりをした。
使用人ごときを問い詰めたところで何にもならない。
いや、必要なかった。鍵となる言葉はいくつもあった。彼らが何の話をしていたのか、それは判りすぎるほどに判った。
ヴァンディルガの挑発が目に余るので少々警備を強めておこう、という話があったのは事実だ。挑発を返す形になって危険ではないかとの話も出たが、万一のことが起きたときに対抗できる戦力がない方が危険だということになった。それには彼も賛同した。
小隊長級の地位を任せる傭兵の採用審査には彼も関わった。連携の訓練に入っていることは知っていたが、それがどこで行われているかは把握していなかった。
もっとも、それが東の砦だからと言って即「西国対策ではない」とは決めつけられない。西国対策だからこそ訓練は離れた場所でやっているのかもしれない。その辺りの決断は軍団長の成すことだ。彼らは関わらない。
しかし――。
「目障りだ」? ヴァンディルガのこととも取れる。だがそれでは続いた物騒な言葉、「皆殺し」が意味を為さない。
最初に洩れ聞こえた、どこかの「神子」の話。
何より「ラシアッドの手前にあるもの」。
(まさかな)
彼は首を振った。
(確かに、先だっての祭りに何か違う趣向をという話はあった。だがエクールの民に打診したなどということは聞いていない)
(だいたい、断られたくらいで目障りだの)
(――皆殺しだの)
使用人たちがその可能性について話していたことはほぼ間違いない。だが有り得ないと思った。
確かに、エクールの民はナイリアンで軽んじられている。だが、まさか。
それから彼はしばらく、件の傭兵たちの動向を気にかけた。しかし話はなかなか騎士たちまで伝わってこなかった。〈白光の騎士〉ファローですら、詳細を知らされなかったと言う。
「奇妙だとは思わないか?」
あるとき彼はファローに尋ねた。
「いざ戦になれば、我々とて彼らを率いる立場だ。何故、隠される?」
「隠されている訳ではないだろう。各隊長との連絡を密にしていれば問題はないはずだ」
「それは、そうかもしれんが」
「戦になると決まってもいない、ヴィレドーン」
少し気遣わしげな表情で友人は言った。
「戦など、起きぬ方がよい」
「俺も戦乱など望まない。ただ、そのときがくれば全力を発揮する、そのために我らは剣技を磨いているのではないか」
「その通りだ」
ファローはうなずいた。
「おののいているのではない」
「お前が戦の噂におののくなどとは思わないさ」
ヴィレドーンは笑った。
「では、お前は?」
ふっとファローは真顔になった。
「何?」
「友よ。お前は何を怖れている?」
その問いに何と返したか、ヴィレドーンはよく覚えていなかった。おそらく、適当なことを言ってごまかしたのだろう。
言えなかった。誰より頼れる親友にさえ。
彼が抱いていた怖れを。
もっとも、それが後に悲劇を生むことになるのだが、このときのヴィレドーン・セスタスはまだ何も知らなかった。
「きているわ」
女の、いや、女の姿を取った存在が言った。
「きているだと? 誰がだ」
ヴィレドーンは当然の問いを返した。
「あなたもよく知る――東の湖の神子が」
にいっと笑って悪魔は言った。その報せは彼の身に戦慄を走らせた。
酷く怖ろしい予感を覚えた。
そして不幸にも、その予感は当たった。
「……ヴィレドーン」
友が彼の肩に手を置いた。
「気の毒な事故だった」
「事故だと」
彼はうなった。
「事故だと!」
ファローの手を払い、ヴィレドーンは彼が彼女を殺したかのように睨みつけた。
「あんな事故など起きるものか! メルエラは何者かに突き落とされた。殺されたんだ!」
「落ち着け。どんな証拠がある」
「十二分じゃないか、ファロー。彼女が西棟の旧見張り台に行く、どんな理由がある? 迷い込んだ? 馬鹿らしい、途中には何人も兵がいるし、鍵だってかかっていたはずだ!」
新しく見張り塔ができて以来、ずっと使われていない見張り台。風を通すために開けることはあるが、兵士の怠け場所になるというので普段は閉ざされている。訪問者がうっかり迷い込むなどできないはずである。もしたまたま開いているときに入り込んでしまったとしても、一ラクト以上ある塀にわざわざ登りでもしない限り、落ちるはずはなかった。
「誰かが彼女を連れ、突き落としたと?」
「そうとしか考えられない」
「ヴィレドーン……ヴィレドーン」
ファローは彼の手を取った。
「哀しみで視界が狭くなっているんだ。落ち着いて考えろ」
「落ち着いていられるはずがない」
彼はやはり、友の手を振り払った。
こんな怒りは、憤りは、覚えたことがなかった。どんな理不尽な事態にも、ここまで激しいものは覚えなかった。
目の前が真っ赤になる。
「世界中の誰もがこれを事故だと言ったとしても、俺は信じない。いや、エクールの民なら信じないさ。彼女は神子だ。神子は天寿を全うするものだ。――殺されでもしなければな」
誰が湖神の神子メルエラを殺したのか。直接突き落としたのかが誰であるかは判らない。だが、誰が命じたかは、判るようだった。
メルエラは何のためにやってきた? 顔を合わせず、話をしなくとも判っている。忌まれても、疎まれても、この国のためにとの信念のもとに助言を持ってきたのだ。〈湖の民〉が国王の助言者となる慣習はとうに廃れたが、それでも重要性を覚えれば彼らは首都を訪れた。
ましてや――ほかでもない神子当人がやってきたというのは、大きな意味を持つ。
メルエラは重大な事態を伝えたくて城を訪れたのだ。
突然の訪問という訳でもない。以前から何度も打診し、時間を取ってもらえるよう王に頼み込んでいた。
(だから)
(「目障り」だった)
浮かんできた答えは怖ろしいものだった。
「謀反だって? あんな田舎の村が?」
そんな噂話も、聞こえてきた。
「馬鹿らしい。あるはずがないだろう」
「それが、不思議な力を持つ神子だの、湖の神だのがいて、馬鹿にできないらしいぞ?」
「しかしそれにしたって」
噂に興じていた者たちは、下らないと決めつけていた。彼だってそう思う。あまりにも下らなくて笑いも浮かばない。
だが、もしやと思った。もしや、誰かがこの噂を誰かが故意に流していれば。
まさか、という思いはあった。そして同時に、そうに違いないという確信も。
国王が彼女を殺した。
そしてそれを皮切りに下らぬ謀反の疑いをかけ、彼自身も属する〈湖の民〉を滅ぼそうとしている。
「そのようなこと……させるものか」
〈漆黒の騎士〉は呟いた。
「そんな戯けた事態が起こる前に、俺が――」
殺してやる、という言葉は小さく、だがはっきりとしていた。




