07 見せてもらおうか
目を覚ましたとき、いったい何がどうなっているのかリチェリンはしばらく思い出せなかった。
まず判ったのは、自分が横になっているのがこれまで感触を想像したこともないようなやわらかな寝台の上であること。暖かく軽い布団は、もし朝寝を許される立場であればいつまでも出たくならないだろうほどだ。
かすかに香ってくる、甘い匂い。香でも焚きしめられているのだろうと想像できた。
(私は……どうしてこんなところに?)
(そうだわ。ラスピーさんが、とんでもない高級な旅籠に案内を)
彼女は少々混乱して、そんなことを考えた。
(――違う!)
それからはっとして身を起こした。
(私はあの部屋で眠りについていないわ。食事を終えて、扉が叩かれて)
(それを開けたラスピーさんが)
すっと血の気が引く。倒れ込んでぴくりとも動かなかった青年の姿が、突然の死を迎えた神父タルーと重なった。
(不吉なことを考えちゃ駄目よリチェリン!)
彼女は自分を叱責した。
(きっと気を失っただけだわ)
それが事実かどうか、気の毒な彼女には知る術がなかった。ただ青年の無事を祈るばかりだ。
(ここはどこかしら)
そしてようやく、考える。
(あの……黒ローブの魔術師が、私をここへ?)
彼女もまたあのあと意識を失った。或いは眠らされたのかもしれない。どちらにせよ、急に目の前が暗くなったあとのことは覚えていなかった。気がついたらこの寝台の上だったのだ。
どこへ連れてこられたのか見当もつかない。どれくらい時間が経ったのかも。
こんこん、と礼儀正しく戸の叩かれる音がした。リチェリンははっとする。
「だ……誰!?」
「――怖がらないで」
戸の向こうから聞こえた声は、女のもののようだった。
「入るわね」
その言葉の通り、扉が開かれる。リチェリンは慌てて寝台を降りた。現れるのが誰であれ、寝台の上では礼儀にもとると――頭で考えた訳ではなかったが、とにかくそのようなことを思ったためだった。
「調子はどう? 頭痛はないかしら? 吐き気は?」
「え……いえ」
リチェリンは目をしばたたいた。
「ありません……」
「それはよかったわ。魔術には相性があって、たとえ安らかな眠りの魔法であっても、合わない人は苦しんでしまうことがあるの」
現れた女は、口先だけではなく、本当にほっとしているようだった。
「あの……」
リチェリンはそっと声を出した。
「大丈夫、ですか?」
「え?」
「ずいぶん、顔色が悪いようなので」
「……まあ」
女は目を見開いた。
「嫌だわ。心配をしてやってきたら心配されてしまうなんて」
それからふっと見せた笑みは、どこか痛々しいものだった。
「私はピニアと言います。この館の主よ……一応は、ね」
占い師ピニアは名乗った。
「一応?」
「ええ。この館のなかでも、私の思い通りにならないことがあるから」
彼女は重いものを持っているかのようにうつむき、それからぱっと顔を上げた。
「でも心配はしないで。あなたを悪いようにはしません」
「それはどういう意味で言っているんですか?」
リチェリンは問うた。
「私は私の意志に反して強引に連れてこられた。『帰して』と言ってもここから出してはもらえないんでしょう?」
「……そうね。それはできないわ」
ごめんなさい、とピニアは謝った。
「本当に……ごめんなさい。私にもっと力があったなら」
「ピニアさん」
リチェリンはそっと占い師に近寄った。
「あなたも、閉じ込められているんですね」
「いえ……外に出ることを禁じられてはいないわ」
「でも、閉じ込められている」
娘は繰り返した。
「あなたより力のある誰かが、あなたに何か禁じたり許可したりしている。それはただの、たとえば雇い主の指示などという段階を越えてとても強いもの……」
神女見習い、或いは隠された神秘を持つやもしれぬ娘は感じ取るままに言って、きゅっと目を細めた。
「外からの強制的な支配。たとえどんなに抗いたい気持ちがあっても、相手が禁じれば指一本動かすことができない。そうした位置に閉じ込められている」
出てきた言葉に彼女は自分でも驚いた。神女見習いの修行をしていても、こんなふうに何かを「感じ取る」ことなどこれまでなかったからだ。
「――ああ」
ピニアは両手に顔を埋めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「あなたが悪いんじゃないと判っています」
リチェリンは思うままに言って首を振った。いまは、奇妙に研ぎ澄まされたようなこの感覚に戸惑いを覚えている場合ではない。
「あれは誰なんです? 私を連れてきた、黒ローブの」
「言えないわ」
すぐにピニアは首を振った。
「言えないの」
「大丈夫です。それがあなたの、望まぬ主だということは判りました」
こくりとリチェリンはうなずいた。
「ほかに、話していただけることは? ここはあなたの館だということですが、ナイリアールですか?」
「ええ、そうよ」
「私は、さらわれたんでしょうか?」
「……そういうことになると思うわ」
「何のために?」
純粋な疑問から出た台詞は沈黙で迎えられた。
「答えを禁じられていますか」
「いえ……判らないの」
ピニアはうつむいた。
「いったい何のために。エクールの神子を手元に置いて、どうしようと言うの……?」
「神子」
リチェリンはぎくりとした。
「それは、誤解です。どうしてあの魔術師が知ったのか判りませんが、私の背中にあるあざはただのあざで、神子のしるしなんかじゃないんです」
「でも、あるのでしょう?」
「あざです」
彼女は言い張った。
「だって、そんなことあるはずがないんです。エクールの神子が行方不明になったのは十何年か前だそうですけれど」
「そろそろ十四年だわ」
ピニアは言った。
「……その頃、いえ、その前から私はアイーグという村にいました。一緒に過ごした幼馴染みもいます。〈はじまりの湖〉から姿を消したなんてことは有り得ないんです」
彼女は真剣に説明した。
「『その人』に話して下さい。私がいま言ったことは本当です。何なら魔術で調べてもらったっていい。私は絶対に、エクール湖の神子なんかじゃありません」
「あなたの記憶が間違っているのかもしれないわ」
ピニアはそう言った。それはラスピーと同じ発言だった。
「間違ってなんか」
「あなたの言う『その人』も、同じように言うでしょう。背中にしるしがある、それはとても重要よ。神子の、唯一の証なのだから」
「でも、私のいちばん古い記憶は、南西部の村でオルフィと遊んでいることですし……」
なおもリチェリンは言い立てた。「六歳の頃まで〈はじまりの湖〉の近くで暮らしていた」など、絶対にあるはずがないと。
「人の記憶などいい加減なものだ」
男の声がした。リチェリンははっとしてそちらを見、ピニアはびくりとして身をすくませた。
「――出たわね」
思わず彼女は魔術師を睨みつけるようにした。
「エクールの神子を探しているの? でも生憎だわ、私は違う」
「しるしがあることは判っている」
「偶然、ちょっと似ているだけだわ!」
いったい何度同じ主張を繰り返せばいいのだろうと思いながら彼女は叫んだ。
「強情な」
魔術師の方でも同じことを思うのか、わずかに嘆息した。
「もっとも、そう信じ込んでいるのかもしれんな。だが記憶をねじ曲げたところで事実は変わらないものだ、神子よ」
「違う!」
「ピニア」
彼女の否定を無視して、コルシェントは占い師を向いた。
「下がれ」
「え……」
「『偶然』似ているだけかどうか、私が見てやろう」
ゆっくりと男は言い、リチェリンはぎくりとした。
しるしにせよあざにせよ、人目にさらすにはどういう格好になるか、考えてみれば心が弾むはずもない。
「そ、それならば私も同席を」
占い師はようよう言った。
「私もご一緒する方が、いいはずです。もう二十年も帰っていないとは言え、私とて〈湖の民〉なのですから――」
その告白にリチェリンは驚いたが、問い返してはいられなかった。
「不要」
コルシェントは手を振った。
「自ら神子の居場所を探り当てておきながら身を案ずるとはな。悔やんでいるのか?」
「私が……?」
覚えがないと言うように、占い師は呆然と繰り返した。
「三度は言わぬ。下がれ」
鋭く魔術師が命令すると、ピニアはまるで引きずられるようにずるずると後退をはじめた。
「リチェリン、さん」
泣きそうな声で女は言った。
「ごめんなさい……」
抗うことのできない命令に従い、ピニアは扉の外に出てしまう。リチェリンは魔術師とふたり、寝台のある部屋に残された。
「では、見せてもらおうか? 神子ではないと主張するお嬢さん」
コルシェントの冷たい瞳に射抜かれ、リチェリンはぎゅっと両手を自らの身体に回した。
「可愛らしいことだ。結構、生娘であることは間違いなさそうだな」
魔術師は呟いた。
「少しだけ時間をやろう。私が魔術陣の支度をするまでの間、好きな神に祈りでも捧げるがいい」




