12 時間を奪って
ひとつだけ幸いしたと言えるのは、サレーヒがいたおかげで何の確認もないまま街のなかに入ることができたことについてだ。
何か事件でも起きていなければそれほど厳しくはないが、門のところで名前や出身地、訪問の目的などを尋ねられる。オルフィとしては念のために偽名を使うつもりだったが――シレキの名前でも借りればいいだろうと思っていた――ちらりとも見られなかったので拍子抜けだった。
サレーヒの案内で馬を近くの厩舎に預けたあと、ウーリナは神殿まで送ると言い、オルフィはもぞもぞした。
「王女様」だと意識したこともあれば、彼女がいるということは騎士もいるということだからだ。
手配されている。
マレサが口走った言葉にサレーヒは反射的な聞き返し以外反応を見せていないが、何を思ったものか判らない。オルフィは緊張しきりだった。
一方でマレサはすっかり舞い上がり、サレーヒに積極的に話しかけている。もっとも多くはハサレックについての質問だった。騎士は判る限り、或いは彼に許せる限りで誠実に少女に話をしているようだった。
「そうか……ハサレック様が生きてるってのはやっぱり本当なんだな」
マレサは嬉しそうだった。
「あっ、あのさ! あっ、会える? じゃない、その会えますか? えっと、お、お会いできますか?」
「気の毒だが、難しいな」
サレーヒは少し笑みを浮かべて答えた。少女の様子が微笑ましかったのだろう。
「す、すぐにとは言わないよ! お忙しいんだろうし、オレ、待つからさ!」
「我々の訓練を公開する日がある。そのときならば目にすることはできる」
「えっ、い、いつ!?」
「本来ならそろそろなんだが、いまは少し忙しいからな、未定だ」
「みてい?」
「決まっていないということだ」
「ええっ……」
「待つと言ったじゃないか?」
「言ったけど、さあ」
サレーヒだってナイリアンの騎士なのだが、彼が咎めないものだから、マレサはすっかり普通の口調で話していた。もっとも、いまサレーヒは〈赤銅の騎士〉の正装を身につけていない。剣を佩いてはいるが、ウーリナの護衛として目立たない格好をしている。そのため彼女も、よきにつけ悪しきにつけ、意識しないのであろう。
これはオルフィが忠告した「その場だけいい言葉遣いをしようとしても無理だ」ということの通りだったが、オルフィは彼女に再びそうしたことを口にできずにいた。
彼自身、余裕がなかったからだ。
(取り憑かれてる?)
(まさか)
(……でも)
エクール湖畔で過ごした夜から、おかしなことばかり。それは間違いない。どうして彼はカナトたちを離れ、馬に乗ってナイリアールへ向かおうとしたのか。マレサにかりそめの保護者のような気持ちを抱いていたのに、どうしてひとりで去ろうとしたのか。
(取り憑かれて、いる?)
有り得ないと一蹴するには、奇妙なことが多すぎる。
「オルフィさん」
そっとウーリナが彼の右腕に触れた。オルフィはびくりとした。
「ごめんなさい、驚かせてしまいましたわね」
「い、いや、大丈夫、です」
「いえ、いまのことだけではなくて。呪いや、悪魔だなんて」
言いながら彼女は魔除けの仕草をした。
「でも感じるんですの。あなたから、尋常ではない何かを」
「それは」
オルフィはちらりとサレーヒを見た。騎士はマレサの相手をしていてこちらの話を聞いていないように見えた。
「……この、左腕から、では?」
小声で彼は尋ねた。ウーリナはじっと包帯の巻かれた彼の腕を見た。
「前にも申し上げましたように、そこに何かがあるのは判ります。でも違います。それは悪いものではありません」
「俺は最初、これが呪われていると思いました」
囁くように彼は続けた。
「でも、一緒にいた魔術師もそう言いました。つまり、魔術ではあるが、邪悪な呪いではないと。ただ俺には、これのせいで奇妙なことや怖ろしいことばかり起きているように感じられる」
「『それ』はむしろあなたを奇妙なことや怖ろしいことから守ろうとしています、オルフィさん」
「守る?」
「ええ。私にはそう思えます。『それ』はとても強い力を持っている。ですが、あなたが信じないと、本来の力を発揮できません」
「本来の? 俺が信じるって何を?」
「『それ』があなたを守ろうとしていること」
「だって。そんな。これは守護符なんかじゃないし、俺であろうと誰であろうと『守る』なんて変だ」
「おかしくありませんわ。強い感情を向けられたなら、命を持たないものにだって心が宿りますのよ。銀貨のお話をした通りですわ」
「感情って言うなら、俺はこれに対して『困った存在だ』くらいしか思ってないですよ」
「本当に?」
「そんなところです」
「でしたら、オルフィさんじゃありませんのよ」
「え?」
「オルフィさんじゃない誰かが、オルフィさんを守るよう、『それ』にお願いしているんですわ」
「誰かって」
彼を案じる人物。カナトのことがまず思い浮かんだ。
(いや、カナトはもう俺のことなんか忘れてサーマラ村に帰ろうとしてるはずだ)
それもまた奇妙な考えであるのだが、オルフィはそう信じ込んでいた。
(父さんやアイーグ村のみんなも帰りが遅いと心配してくれてるかもしれないけど、籠手のことは知らない)
ウーリナの言を信じるとしても、村の人々が「籠手にお願い」するなどということは有り得ない。
(籠手のことを知ってる人間。カナトとシレキのおっさんと……)
(畔の村の長老? でもとても俺を心配してるとは思えないし)
(あとは……)
考えるオルフィの内に、ふっと浮かんできた名前があった。
(――ラバンネル)
大導師ラバンネル。籠手に魔術をかけた人物。
(面識なんかないんだし「俺」を心配してるはずはないけど、誰であれ「籠手の装着者」を案じてるということはあるかも?)
(第一、アバスターの次くらいにアレスディアのことに詳しいはずだ)
(いやそれとも、アバスターよりも、なのかな)
籠手の持ち主と魔術をかけた者と、どちらが「籠手を知っている」ことになるのかよく判らない。だが魔術師ラバンネルはウーリナの言う条件には当てはまるように思えた。
ラバンネルの術が籠手にかかっている。それはもう判っていることだ。だがそれがどういう魔術か、カナトでも判らなかった。
いや、カナトも推測はしていた。籠手がオルフィを操っているのではないかと。
(じゃあ俺は籠手に取り憑かれてる?)
(でも姫様は、籠手は悪くないって)
(どうなっているのかさっぱりだ)
(……もうずっと「さっぱり判らない」じゃなかったことがないな)
自嘲気味に考えて彼は嘆息した。
(少なくともこの腕から籠手が外れないのはラバンネルの意思だ。「俺」に託したかどうかは別として、魔術師はそういう魔術をかけた)
(そしてこの籠手は持ち主を「守る」。それは判るような気がする)
(籠手は酔っ払いを殴り、ヒューデアから逃れて、黒騎士と戦った。でもエクール湖まで、俺の記憶がおかしかったことはなかった)
(だから、記憶に関しては籠手のせいじゃない。……たぶん)
彼は考え続けた。
(あの夜、俺は誰かに会った。そして話したんだ)
(いや、エクール湖畔でだけじゃない。違う場所でも何度か)
誰かがふっと笑うような様子が頭の片隅によぎった。
(これは誰なんだ)
(こいつが、俺に取り憑いてるのか?)
(それで俺の記憶を……奪ってる)
(違う)
(俺の時間を奪ってる)
それはぞっとする想像だった。記憶がないのはただ覚えていないからだと思っていた――それも充分、不気味な話だが――オルフィだが、そうではないとしたら。記憶がない間、彼の身体を別人が使っているのだとしたら。
(死んだ人間が身体に乗り移るとかって幽霊奇譚じゃあるまいし)
オルフィは自分の想像を笑い飛ばそうとした。だが、巧くいかなかった。
「心配しなくても大丈夫ですわ」
彼の表情が引きつったのを見て、ウーリナは笑みを浮かべた。
「神官様に祓っていただければ、きっとよくなります」




