09 間違いなんだ
ナイリアール。
何だかずいぶんと懐かしい気がする。彼は心を引き締め、手綱を操った。
橋上市場を発ち、モアン、マルッセの町をあとにして二日。ここまでの旅程は順調だったと言えるだろう。
彼の邪魔をする者は、あれ以来、なかったからだ。
道程はおおむね、静かだったと言える。
彼を揺さぶる声は、なかったから。
「――ナイリアールか」
彼は誰に聞かせるともなく呟いた。
「戻ってきた」
「んあっ」
背後で寝ぼけたような声がした。
「起きたか」
彼は苦笑混じりに言った。
「よく寝てられるなあ、馬上で」
「仕方ないだろ、夜はお前を見張ってなきゃならない」
目をこすりながらマレサは言った。
「いいか、オルフィ。オレを置いていこうとしたこと、オレは許してないからな」
「……置いていこうとした訳じゃないよ」
オルフィは呟いた。
「どうしてあんなふうに性急に発とうとしたのか、自分でもよく判らないんだ」
あの夜、「彼」はひとりでナイリアールに向かおうとした。だがオルフィがいないことに気づいたマレサが部屋を飛び出し、厩舎で「彼」を見つけて呼んだ。そこで「彼」は再び「オルフィ」になった。
マレサは彼が置き去りにしようとしたと考えて憤慨し、二度とそうしたことのないようにと翌夜は眠りにつくことを拒否してオルフィを見張ろうとした。
しかし子供のことだ、すぐに眠たくなってしまい、彼女は自分で「これでは駄目だ」と考えた。
そうして彼女が考えたのは、何とオルフィと自分の足を縄で結びつけることだった。どういう理由かマレサは言わなかったが、彼女の旅道具のなかに入っていたのだ。
本気で外そうとすれば簡単だ。子供が寝入った隙を見計らえばいい。だがオルフィは、それでマレサが満足するならと思って放っておくことにした。
オルフィとしては彼女を置いていく気はなかったのだが、マレサは見張りと縄の案が巧く行っていると思い込み、二夜ともそれを続けた。結果として少女は睡眠不足に陥り、馬で移動中にうつらうつらした。
それは危険なので、今度は同じ縄がおんぶ紐のように活躍し、マレサをオルフィにくくりつけた。マレサは少々気に入らなかったようだが、目的には添うということで甘受し――彼らは傍から見れば実に奇妙な状態で首都に近づいた、というところだった。
「また『判らない』かよ」
ふん、と少女は鼻を鳴らした。
「言い訳としちゃ落第点だな。オレだってもっともましな理由を考えるぜ」
嘲弄するように言いながら少女は縄を解いた。
「嘘をついていいなら、俺も考えるさ。本当だから言うんだ」
「判らない」に説得力が皆無であることなど承知である。言い訳ならば「馬の様子が気になって見に行っただけだ」とか「眠れなかったので夜駆けをして戻ってくるつもりだった」とか、そうしたことを言えばいい。マレサが信じるかどうかはともかく、「判らない」よりはましだ。
だが実際に判らない。
ニイロドスと会ったことも、オルフィは忘れてしまっていたのだ。
(本当に、いったいどうして)
(……判らないことを考えても仕方ないな)
彼は首を振って諦めた。
「ところで、マレサ」
「ん?」
「その帽子、貸してくんないか?」
「は?」
青色の帽子をかぶった少女は目をぱちくりとさせた。
「その……実は」
こほん、と彼は咳払いをした。
「俺はちょっと、顔を隠した方がいい事情があって」
追われてナイリアールを逃げ出したこと、忘れている訳ではない。追われた原因であるに違いない籠手はまだ彼の左手にあるのだ。
包帯はマレサに巻き直してもらっていた――少女には「目立つが外せない事情がある」とだけ言い、彼女は騎士に憧れる少女らしく「何か誓いを立てていて外す訳にいかない」と解釈していた――が、カナトの魔術はない。
籠手があらわでなくとも包帯をした腕は目立つということをよく覚えておかなくてはならない。
そして、腕はこれ以上隠せないが、もし手配書がまだ出回っているようなことがあれば。
「この帽子じゃ、あんたにはちょっとちっちゃいんじゃない?」
胡乱そうな目つきで、マレサはもっともなことを言った。
「う」
言われてみればその通りかもしれない。マレサは子供で、しかも女の子。その帽子は、オルフィが深くかぶれるほどの大きさではないだろう。
「だいたい、そんなこと最初から判ってたんじゃないのか? 先に用意しとけばよかったじゃん」
「う」
反論の余地がない。オルフィは言葉に詰まった。
「変な奴。騎士様みたいに馬を駆るかと思えば、簡単な準備ひとつできないなんて」
「気が急いてたんだよ」
理由の判らない焦燥感を言い訳にしても虚しい。
「もうこうなったら、街に入って買うしかないだろ。商店主にも顔を見られたくないってんならオレが買ってきてやってもいいよ」
「う、まあ、そこまではしてもらわなくても大丈夫だと思うけど」
オルフィは曖昧に言った。
「でもどういうこと? あんた、首都では有名人とか?」
「……かもしれない。そうじゃないかも」
「はあ?」
「……手配、されてるかもしれないんだ。似顔絵つきで」
「はあっ!?」
「い、いや、間違いなんだ! 俺は何も盗んだりなんか」
「盗み!? 何だ、あんたも盗賊のくせして、オレに盗みはたらくなとか説教した訳か!?」
「ち、ちが」
「違うぅ? ふざけんなよ、偽善者野郎ッ」
「あのなっ! 言わせてもらうが、俺の容疑と君が掏摸なんかしちゃいけないってのは全く関係のない話だろ!」
「そうは思えないね。偽善者の説教なんか」
「たとえ俺が稀代の極悪人でも、君がバジャサやお母さんを哀しませていいってことにはならないだろうがっ」
オルフィは馬に乗った状態で可能な限り背後を振り向いた。
「もし、まだ悪いことをしようって気持ちがあるなら、バジャサのことを考えろ。君のことを本当に心配していたんだぞ。橋上市場にいる、性質の悪い不良集団と一緒に思われて掴まったら」
「オレはあんな馬鹿どもと違うよ。ほんとの財布は狙わないんだ。あんたからだって盗ったのは五十ラルだけだろ。普通は、小銭入れを奪われたくらいであんな向きになって追いかけてこないし」
「金額の問題じゃない!」
「判ってるよ、何か知らないけどあの五十ラルは大事なもんだった、それは判っ」
「俺の話じゃない。いいか、マレサ!」
「あら、また喧嘩ですの?」
のんびりした声がふたりの耳に届いた。ふたりは、いや、オルフィは固まった。
「今度は苛めているようではないですけれど……いえ、あのときも違ったのでしたわね」
「あ、あんた」
オルフィはぽかんと口を開けた。
「ウーリナ……姫様……!?」
ラシアッドの王女はにっこりと微笑んだ。