06 大いなる一日
クートントの世話をして、アイーグ村で用聞きをし、特になければ前日に預かった用事から順番に片づけていく。そうこうする内に、次の仕事をもらうだろう。
今日もいい天気だ。
不気味な夢を思えば嬉しくない一日のはじまりだが、厄はもう祓ったし、嫌なことのあとにはいいことがあるものだ。
オルフィはそんなふうに考えながら荷馬車を御していた。
(そうさ、きっと今日はいいことがある)
片づける用事を頭のなかで整理しながら、若者は明日明後日のことを思った。
(ナイリアールまでは五日くらいかかる。そろそろ支度した方がいいな)
頼まれているのはちょっとした買い物だ。カディントンの母さんが、首都ナイリアールでしか手に入らない化粧品がほしいのだと言う。急がないということだったから、オルフィは近くの村々で首都での用事がないか尋ね、あればまとめてこなそうと考えていた。往復十日間の旅路はちょっとした出費だ。おそらく彼のためにわざわざ仕事をくれたカディントンの母さんには言えないが、ひとつふたつの用事だけでは収支が合わないのである。
オルフィの仕事は「ものすごく稼げる」というものではない。自分とクートントが日々食べていけるくらいの慎ましいものだ。少しはやりくりして父親や――リチェリンへの贈り物を考えたりもするが、そんなところだった。
もっとも、いまはそれだけで充分だった。
若者は「将来のこと」などろくに考えない。彼はまだ若いから、こうしてあちこち飛び回って疲れても、ひと晩休めば回復する。年を取ればこんなに身軽に動けなくなるなどということは思いもしない。いまは独り身だからいいが家族を持てばもっと金が必要になるだとか、仕事ができなくなるほど老齢になったときのために宝石などにして保管しておこうだとか、そんなことはちっとも考えないものだ。
彼はただ、毎日を楽しんで生きた。
それがオルフィという十八歳の若者だった。
年を取れば、やがて変わることもあるだろう。
十年、二十年。
いや、それとももっと早く――。
「おーい、オルフィ!」
酒瓶の入った箱を店の主人に渡していれば、彼を呼ぶ声がした。
「はいよー、ちょっと待って。すぐ行くから!」
ささやかな礼金を受け取って挨拶を済ませると、オルフィは疲れを知らずに駆けていった。
「よう、レクト。また農耕具の修理?」
「そんなに何度も壊すかよ。そうじゃねえよ」
オルフィと同年代の若者は顔をしかめた。
「お前、ナイリアールに行くんだって?」
「ああ。その予定だけど。何か要るもん、あるのか?」
「その……何だ」
こほん、とレクトは咳払いをした。
「絵姿とかって売ってるのかね」
「絵姿?」
オルフィは首をひねった。
「誰の?」
「ジョリス様」
その返答に彼は吹き出した。
「お前、そんなもんがほしいのか?」
「俺じゃねえよ、ミアリアだよっ」
それは友人の妹の名だった。
「変な方向に色気づいて、ジョリス様ジョリス様うるさいんだ。顔も知らないくせにって言ってやったらナイリアールに行くなんて言い出して」
兄は嘆息した。
「もちろんそんなこと、許せるはずがない。絵姿をもらってきてやるってことで何とか決着がついたんだ」
「判ったよ」
苦笑いを浮かべてオルフィはうなずいた。
「確かあったと思うよ。売ってるの、見かけたことがある」
オルフィとて〈白光の騎士〉に憧れているが、その絵姿を見つめてうっとりするような趣味はない。一方で友人の妹はそういうことが好きであるようだ。
「じゃ、これで買えるようなら頼む」
レクトは小さな袋を差し出した。了解、とオルフィは受け取った。
買い物の代行の場合は、必要な代金をあらかじめもらっておき、帰ってきたときに輸送費として報酬をもらう形を取っている。仕入れ価格に上乗せした金額をもらう形だと、商人の仕事ということになってしまうからだ。あくまでも本人の代わりに買い物をしているということにしないと、商人組合がうるさいのである。
もちろん組合に入れば文句は言われないし、手形を発行してもらえるなど便利なこともいろいろあるが、これまたもちろん、定期的に組合費を納めなくてはならない。生憎とオルフィにそんな余裕はなかった。もとより「商人」になろうという気持ちもない。
彼は村の荷運び屋。または「何でも屋」が関の山だ。
(さて、これくらい引き受ければとんとんくらいにはなりそうだな)
(携帯食料や水の準備をはじめようか)
自分のものばかりではなくクートントのことも考えないとならない。街道を少しだけ離れれば草には事欠かないものの、水場は限られている。
(前のときはどうしたっけな)
数年前の記憶を引っ張り出しながら、オルフィは旅の支度について考えた。
(この前はバケツと水場でどうにかしたけど、あれは巧くなかった)
(バッセン村に行って、おやっさんの酒蔵から樽を分けてもらって、井戸の水を詰めていけばいいかな。香草を入れれば腐らないって言うし)
(食料はルタイの砦で分けてもらうのがいちばんかも)
兵士たち用の糧食は本来、もちろん、販売などしていない。だが父のつてを頼れば少しくらい何とかなるだろうと彼は楽観的に考えた。駄目だったら仕方ない、タスタク村で売っている不味い保存食を買っていくしかない。
万事、順調。
何も問題など発生しそうになかった。
(いい天気だ)
街道に出ると、再びオルフィは思った。
(今日みたいな日は出発に最適だな。さっさと準備して、出かけちまおう)
急の用事はみんな済ませた。
いざ行かん、首都ナイリアール。
(やっぱりリチェリンに、何か買ってくることにしよう)
高級なものはとても買えないが、ちょっとした小物くらいならどうにでもなる。どんなものがいいか、考える時間もたっぷりある。オルフィは自然、鼻歌を歌い出した。
今日はいい日になると、そう思って。
それは、太陽が天頂にかかり、少しずつ傾いていこうというときだった。
ふと空を見上げると、薄い雲が出はじめていた。
もっとも、曇りと言うほどでもない。まだまだ快晴と言える範疇で、オルフィは何も気にしなかった。
今日はいい日だと、そう信じた。
あとになってみれば――。
その日はオルフィにとって、決して「いい日」ではなかった。
オルフィだけではない、ほかの者たちにとっても。
だが少なくとも彼にとって、この日は大いなる一日であった。
彼は知らない。まだ知らない。〈名なき運命の女神〉が、静かに彼の髪に運命の白いララウ花を差したことを。
かたかたと車軸の音がする。
驢馬は何ら問題なく、街道を進んでいた。
「おっと」
オルフィの視界の端に、何かが入った。
「馬、だな」
右手――東方から走ってくる馬がある。珍しい、と彼は思った。
砦には軍馬がいるし、兵士たちは巡回のとき乗馬してやってくるから、馬自体が珍しいということはない。
だが、ああして疾駆している馬は珍しかった。
もちろんそれには乗り手がいる。野生の馬が暴走している訳ではなかった。
(この速度だと、ちょうどかち合っちまいそうだな)
オルフィは前方を見た。
彼はのんびりと進んでいるが、向こうの速度からすると、正面の四つ辻で危ういことになってしまいそうだ。
「どうどう」
オルフィはクートントの手綱を引いた。
誰がどうして急いでいるのか知らないが、さっさと行ってもらうのがいいだろう、と判断したのだ。
しかし彼の思惑は巧いこと進まなかった。
と言うのも、まるで向こうも同じことを思ったかのように馬足を緩めたからだ。
「へっ?」
気づいたオルフィは妙な声を出した。
馬をあんなに――上手に――疾駆させる技術を持つ人物が、驢馬引きの荷車に遠慮などするはずがない。
ならば何故?
(道にでも迷ったんかな)
オルフィは推測した。
(それなら教えてやらないと)
(ここは)
(ウィランの四つ辻って言うんだって)