01 夫となられるお方
静寂はどこかぎこちなかった。
いや、それを感じていたのは部屋にいる片方の人物だけだっただろう。
訪問者は目をきらきらさせて――とはこういう様子を言うのだろうな、と部屋の主は思った――彼を見つめていた。
「……いかがですかな、ナイリアン王城は」
ようやくレヴラールは口を開いた。
「素晴らしいですわ」
にっこりと返事がやってきた。
当然の答えだろう、と王子は思った。これは何も彼がナイリアール王城に絶大なる自信を抱いている訳ではない。わざわざやってきた他国の王女が、何かについて――ナイリアンにせよナイリアールにせよ王城にせよ王子にせよ――よりによってその王子の前で悪く言うはずなどないからだ。
「ラシアッドのお城はこちらの半分もございません。大きさだけでは何も判断できませんけれど、ただ広いだけでがらんとした場所は寂しいものですわね。でもこちらは隅々まで活気に溢れていて、働く者たちはもとより、こうした」
ウーリナは卓上に置かれた繊細な茶器を持ち上げた。
「茶杯ですら喜びを覚えているのが判りますわ」
「……左様か」
変わったことを言う王女殿下だ、とレヴラールは返答に迷い、ただ相槌だけで済ませることにした。
ウーリナ・エリシル・ラシアッドが彼女自身の護衛と侍女、及びレヴラールの護衛剣士であるグードに連れられて城門をくぐったのは、一日前のことになる。
表向きは表敬訪問というところだ。大げさにはせず、父王の名代として挨拶にきたのだと。
だが彼女の身分と王子の立場からすれば、憶測は誰にでもできる。挨拶であれば以前のようにラシアッドの第一王子ロズウィンドがやってくればよい。第一王子を何度も出すのが沽券に関わるとでも言うのなら、かの国には第二王子もいる。
それが、年頃の王女だ。
レヴラールの婚約者、少なくともその候補であることは容易に知れた。
ラシアッドと結びつきを強くしてもナイリアンには大して旨みがないが、ラシアッド側としては大いにある。敢えて王子や重臣をつけることなくひとりで彼女を寄越したのは、何の二心もないことを示したくてであろう。レヴラールはそう考えた。
サレーヒやキンロップに言ったように、レヴラール自身はどうでもいいと思っている。父王が決めた誰とでも結婚するし、子を作る。それは彼の義務だ。相手はウーリナであってもよいし、違ってもかまわない。何でもいい。
だがそれは、ウーリナを粗雑に扱ってよいということにはならない。小国であろうと第一王女、身分相応の礼儀は尽くすべきだ。
よって彼は、不幸な事故によって床に伏した父王に代わり、王女ウーリナと面会を持っている。状況が状況であるから非公式ということになるが、それはラシアッドにも判ってもらわなくてはならないところだ。
互いの自己紹介を含めた簡単な挨拶は済んだものの、話はそこで途絶え、レヴラールとしては正直なところ困っていた。彼が主体となって外交を進めることはこれまでほとんどなかったのだ。誰かしら補佐がついたし、極端な失言にだけ気をつければよかった。
もっともウーリナに何かを決定する権限があるとは思えない。普通の姫君に取る程度の態度でいればいいだろうとも思った。
「ラシアッド国王陛下のご容態はいかがか。ロズウィンド殿下がほとんどの務めと代行しておいでだと聞いたが」
東のラシアッドは小さな国で、ナイリアンが気にかけるような相手ではない。だがそれでも境を接した隣国だ。大まかな状況はレヴラールでも把握している。
「ええ、仰る通りですわ。病状が重いと言うのではありませんけれど、長時間起き上がっていられませんの」
それは「病状が重い」と言うのではないかと王子は思ったものの、発言は控えた。
「いま、ラシアッドの王は実質、お兄様ですのよ。お父様はお休みのままで何も問題ありませんわ」
王の娘であるから許されるきわどい発言であった。やはりレヴラールは黙っていた。
「これは内々での話なのですけれど、お兄様が王位を継ぐことが決まりましたのよ」
「それは」
レヴラールは目をしばたたいた。予想されることではあるが、驚いたと言おうか困惑したのはそこでもない。
「私に告げてしまってよろしいのか」
口の端を上げて彼は尋ねた。
「まあ」
ウーリナも目をぱちぱちとさせた。
「だって、レヴラール様はわたくしの夫となられるお方でしょう?『内』に含まれると思いますの」
「ウーリナ姫」
こほん、と王子は咳払いをした。
「貴女がどのように聞かされているのか、おおよそ判ったようではあるが……」
どうやらあまり賢いとは言えなさそうなこの姫君は、たとえば「ナイリアンの第一王子を誘惑してこい」などという密命は受けられそうにない。「お前の夫になる方として丁重に接するように」とでも――父王からだろうと兄王子からだろうと――そのようなことを言われて純粋に信じているのだろう。
「はい?」
何でしょうか、とウーリナは小首をかしげた。
「そのことは何ひとつ決まっていない」
「と仰いますと?」
「貴女はこの城や街のご滞在をしばし楽しんだあと、やっていらしたのと同じ状況で国にお帰りになることも十二分に考えられる、ということだ」
「それは、レヴラール様の妃にならぬまま、という意味ですの?」
直接的に彼女は確認した。
「お帰りいただくとなれば当然、そういうことになろうな」
王子は返したものの、ますます困惑していた。今度はウーリナの呑気さについてではない。
ナイリアン国王とラシアッド国王の間でどのような話が上がっていたものか、レヴラールには知る由もない。実はウーリナの言っていることの方が事実であり、何も知らずに呑気でいるのはレヴラールの方かもしれないのだ。
父王たちの決定であれば、彼も彼女も従うしかない。いや、こちらの決定者は国王レスダールだが、先ほどのウーリナの話が事実なら、向こうの決定者は彼と同じ第一王子であるロズウィンド。
(妹を人身御供に差し出すとはな)
(そこまで冷徹な人物とも見えなかったが)
ラシアッド王子ロズウィンドには、温厚そうで物静かな若者という印象があった。ウーリナを大国との繋がりに利用するというのは必ずしもロズウィンドの考えではなく、年若い王子に――実質的な王、ということであればなおさら――いろいろと吹き込む老獪な「自称」忠臣でもいるのかもしれない。
(ともあれ、いまは様子を見るしかない)
(――父上が早く回復して下さればよいのだが)
いささか他力本願ながらも王子はそう思った。彼はきちんと教育を受け、もし万一のことがあればその日からでも王座に就くことができるが、不慮の事態でそうなるよりは時間をかけて支度をし、彼自身にも城内にも国全体にも混乱が生じないようにする方がよいに決まっている。
いま父王がみまかり、彼が王位に就くことになれば、混乱は必至だ。もしレスダールがどこかの国と正式な書面ではなく口頭で何か約束でもしていれば、その事実をレヴラールが知ることはできない。「聞いていないから知らない」で済ませられる、または何食わぬ顔で知らないことにしてしまった方が都合のよい話であればともかく、反故になってはナイリアンに不利な密約でもあれば。
同席していた者がいれば話を聞くことはできようが、その人物の主観が入る。コルシェントでもキンロップでも他の誰でも、少し自分に都合よくしようと話を書き換えれば、それは彼には判らない。
絶対にそのような真似をしないと信頼できる人物はいない。
いや、ただひとりだけいた。
だが、もういない。
その人物は彼を裏切った。
何も言わず城を出て、彼の知らないところで死んだ。
(――考えるな)
レヴラールはそっと首を振った。
(いまは、ウーリナへの対応だ)
機嫌を取る必要はないが、極端に損ねることも避けたい。婚約の話は彼の知らない取り決めがあるとしてもないとしても、とりあえず保留であることを判ってもらわなければならない。
ウーリナにも、ロズウィンドにも。
「そうでしたの」
気の毒かもしれない王女はうつむいた。