12 どっちでも面白い
「『騎士』はその高潔さ、或いは潔癖さから女の身体に溺れはしない。ただの若者であれば、拒否させるのは羞恥かしら? 女を知らなければ、怖れもあるでしょうね」
「俺は……」
彼はぶんぶんと首を振った。
「お前は、女じゃない」
「人間の女でなくたって、形が同じならできるのよ。初めてでも心配しなくていいわ。みんな教えてあげる……ただ、今後一生、人間の女では満足できなくなるでしょうけれど」
「寄るな」
今度は一歩退いた。くすりとそれは笑った。
「怖いのね」
「下らない挑発には乗らない」
きっぱりと彼は言い、手に残った感触を消そうとするように握り締める。
「ふふ、相手によってはこの姿の方が簡単なのだけれど、お前も彼も好まないようだわね」
言うとそれは手を振り、一瞬にして帽子の青年の姿に戻った。
「実を言うと、僕もこの姿の方が好きなんだ。いろいろな形を取ってみたけれどこれが一等いい」
「その道化じみた姿が?」
「君は前にも、そう言った!」
くくっとニイロドスは笑った。
「そうとも。僕は舞台の上の道化だ。あちこちにちょっかいをかけてうるさがられながら、決して物語を動かすことはない。ただ、主人公たちには的外れな戯言としか思えない台詞が実は真を突いていること、観客には判るのだけれど、ね」
「何とでも言え」
思わせぶりな言葉をやはり彼は一蹴し、そっと考えた。考えてみようとした。
だが、判らない。
「自分」は――誰だ?
「早くナイリアールへお帰りよ」
ニイロドスは言った。
「待っているよ。〈白光の騎士〉が君を」
〈白光の騎士〉。
それは、誰だ。
判らないはずがない。なのに判らない。頭のなかにはっきりと浮かぶ姿があるのに、霞がかっていてよく見えない。
もっとも、いまナイリアールで「彼」を待つ騎士はその「どちら」とも違う。
ジョリス・オードナーでも。
ファロー・サンディットでも。
「……道化は物語を動かさないんじゃなかったのか」
「はは、言ってくれるね。でも自覚はある訳だ。君がナイリアールへ行けば、物語は動くと」
「知るもんか」
「ナイリアールへ行く理由が判れば、君はヴィレドーン。判らない内は、君はオルフィ。僕はどっちでもいいんだ。どっちでも面白い」
続けざまに発されたふたつの名は、生憎と彼をどちらにも振らなかった。まるで聞き覚えのない「音」のように、彼はふたつの名を聞き流した。
自分は誰なのか。判らなくなっていた。
ナイリアールへ行く理由は、判っているように思った。だが言葉にならない。
このとき彼はオルフィであるともヴィレドーンであるとも言えなかった。その状態をニイロドスは楽しげに見ていた。
それは道化と言うより観察者とでも言うべきだったろうか。もっとも、ただ見ているだけではない。「それ」は気まぐれを起こせば、子供が蟻の行列に悪戯するよりもたやすく、彼らの道行きを乱すだろう。
そのことをオルフィは知らない。ヴィレドーンは知っている。そのことをニイロドスは判っている。
まるでそれは、ねじれて裏表の存在しない輪〈ドーレンの輪っか〉のようであった。何が正しくて何が間違いなのか。そもそも正誤などあるのか。
知る者はない。誰ひとり。獄界の悪魔でさえ。
「――俺は、ナイリアールに行かなくてはならない」
しばしの沈黙のあとで彼は宣言した。
「お前の言葉は関係ない。俺には使命があるからだ」
「その使命は思い出した?」
問いかけに彼は黙った。判ったと言うようにニイロドスはうなずいた。
「では成り行きを見守ろう。さっきから繰り返し言っているように、僕にはどっちだっていいんだ」
「お前を面白がらせるために行動する訳じゃない」
「どっちだって面白い」という無責任な台詞を思い出して彼は相手を睨み付けた。
「ひとつだけ教えてあげる」
唇の片端を大きく上げてニイロドスは言った。
「僕は自由にやっているように見えるだろうけれど、いくらか制限がある。それは約束……契約があるからさ」
「先ほど言っていた下らないものか」
「『君は僕のものだ』というのはちっとも下らなくなんかないけれど」
ニイロドスは肩をすくめる。
「幸か不幸か、その約束じゃない。その約束は君にこそ制限を与えるけれど、僕の方はもらうだけだから」
「何も与えてやる気はない」
「ふふっ、どんな『気』だとしたって契約には逆らえないよ」
だいたい、と悪魔は続けた。
「君はみんな納得した上で血の誓いをしたんだ。覚えていなくたってね」
「血の」
不気味な感じのする言葉だった。彼は眉をひそめた。対するように悪魔は笑んだ。
「さあ、今夜はもう戻って身体を休めるかい? それとも休息はもう充分として馬を駆る?」
ニイロドスは選択肢を提示した。彼がどちらを選ぶか、観察しようと言うように。
宿に戻れば、マレサが彼をオルフィにするだろう。ひとりで行けば、彼はヴィレドーンに近づくだろう。
どちらが正しいのか。どちらかは誤りなのか。
「彼」が本当に望むのはどちらなのか。
その答えは出ているようでありながら、まだ判然としないものであった。
(第4章へつづく)