09 魔物
そう、そこには「ファローに負けまい」という思いも存在した。
と言っても、対抗心というようなものではない。ごく近くで関わり合う〈白光の騎士〉は、それこそ理想のようによくできた人物だ。嫉妬や羨望すら浮かばない。彼に友と呼ばれるのは誇りですらあった。
一方で、騎士としてそうであってはならないとも思う。白光位は確かに漆黒位の上ということになるが、だからと言ってファローに全て任せきりではならない。彼自身、第二位としてファローと国と民を支えなくてはならない。その気持ちにも偽りはない。
だからこそ、焦りも生まれる。
自分はどうしてこのようなところで立ち止まっているのか?
あの話の真偽をただそうとしないのは何故だ?
(怖いからだ)
答えは簡単だった。彼は怖れていた。自分の考えが邪推であればよい。被害妄想のようなものであれば、それで結構だ。
だが、もしも。
もしも真実であったとき、彼に何ができるのか。
「――〈漆黒の騎士〉と呼ばれる人物でも、自分の無力感に苛まれるようなことがあるのね」
暗がりから聞こえた声に、彼はぱっと顔を上げた。
ほとんど眠るためだけに戻る小さな家には誰もいないはずだ。使用人を雇ってはどうかという声もあったが、家に帰ってまで崇拝の視線を受けるのは少々煩わしかった。掃除等のために信頼できる人間を雇うことはあったが、その人物がやってくる日ではない。
「誰だ」
彼は右腰の剣に手をかけた。鎧は脱いでいたが、剣は身につけている。
「あら」
くすっと笑うような声がして、明かりが灯った。
「ナイリアンの騎士様は、女に剣を抜くの?」
部屋の奥にある机の上に腰かけ、両脚を組んで彼を見ている若い女の姿が闇に浮かび上がった。わずかな明かりのなか、長い黒髪を垂らした女の肢体は、銀色の薄い衣の向こうに透けるかのようだった。
「相手が咎人であれば、必要なこともある」
留守宅に許可なく侵入している、十二分に罪だ。なまめかしい影に惑わされることなく、彼ははっきりと言った。
「何者だ。ここが誰の家であるか知った上でのことか」
「もちろんだわ。〈漆黒の騎士〉ヴィレドーン・セスタス」
女は彼の完名を呼んだ。もうひとつ、明かりが灯る。
「魔術師か」
と彼が言ったのは、それらの明かりが燭台の火ではなかったからだ。
鬼火、とでも言うのか。女が手をひらめかせると、彼女の周りに拳大ほどの炎が踊った。
「いいえ」
女は首を振った。
「『不思議な力』を操るのは魔術師だけではないのよ、ヴィレドーン」
「その『不思議な力』とやらがあれば留守宅に入り込んでよいと思っているのなら、その誤りを正してやろう」
「面白いことを言うのね」
くすくすと、女は笑った。
「魔術師でなければ何だ」
一緒に笑ってやることなどせず、厳しく彼は問うた。
「魔物か」
「あら」
女は目をぱちくりとさせた。
「――ヒトの形を取り、ヒトの言葉を話す魔物が存在すると知っているのは、それこそある程度以上学んだ魔術師くらいなのに。成程、騎士というのは勉強家でもあるのね」
流麗な剣技だけで騎士になれる訳ではない。確かに女の言う通りでもあった。彼は、いや、彼に限らず騎士たちはみなたくさんの本を読み、場合によっては専門家にも話を聞いて様々な知識を身につけていた。
その知識のなかに、あったのだ。
一般的には街道に出没する「知能の高い獣」を魔物と言うが、その種類は千差万別であり、ごく一部だが人間によく似た姿をして町なかで暮らすような生き物もいるのだと。
その知能は街道の魔物どころではなく、人間と同じかそれ以上とも言われた。昔語りに出てくるような化け狐や金髪女狐もまた魔物の一種とする説もある。
「それは、認めたということか」
彼は剣から手を離さなかった。
「お前は金髪狐か。それとも女夢魔の類」
「どちらも違うわ、可愛いヴィレドーン」
女はまた笑った。
「私はお前の思うような魔物ではないわ。それどころかお前の導き手よ。その心にかかって仕方のない黒い霧を払ってやるために降臨したの」
「黒い霧……だと」
「ええ。そうでしょう?」
女はゆっくりと足を組み替えた。普通の男であれば視線を奪われてしまうところだ。彼とて気を逸らされそうになったが、それが狙いだと気づけば乗せられることはなかった。
「聞いたのでしょう? 不吉な影をもたらす噂を。そこに明確なしるしはなく、下世話な噂と切り捨てたところで普通の反応ね。でもお前は気にかけている。もしも……と」
「……何を知る」
「お前の知りたいことを」
「言え」
「私に命令することはできなくてよ、漆黒のヴィレドーン」
「何であれ、告げるために、こうしてここにやってきたのだろう。無駄な時間を取らせるな」
「生憎だけれど私はお前たちの信者って訳じゃないの。『騎士様とお話しできた』なんてとんでもない偉業のように語る趣味はないわ」
「取り引きか。何が望みだ」
「――お前が」
にいっと女の朱い唇が不気味な笑みを形作った。
「私はお前が欲しい。ヴィレドーン・セスタス」