04 怯え
「それより、クートントに会ってきていいかな」
「ああ、そうだったな、行っておいで」
「ん」
有難うとオルフィは答えて指し示された方へ小走りに向かった。マレサも慌ててついてくる。
「クートント!」
納屋を回るとオルフィは愛驢馬の名を呼んだ。驢馬はよく知る声に耳をぴくりとさせて振り向いた。
「あはっ、元気だったか? 元気みたいだな。よさそうな人で本当によかった。こればっかりはおっさんに感謝しなきゃ――」
笑いながら駆け寄ったオルフィは、しかしそこで言葉をとめた。
「……クートント?」
驢馬の様子がおかしい。
かと言って、病気のようだとか、そういう意味ではなかった。
「何だよ? 俺が、判らないのか?」
クートントはいつも、オルフィを見ると嬉しそうにいななく。毎朝、同じだった。だが驢馬はじっと、まるで睨むように彼を見たまま、神経質そうに前脚で地面をかいている。
「あ、あのさ、俺はお前を捨てた訳じゃないぜ。ちゃんと話したろ? そりゃ、言葉は判んないだろうけど……」
もごもごとオルフィは言い訳をした。クートントが置いていった彼に怒っていると、そんなふうに思ったからだ。
だがそうではない。
クートントは怒ってなどいない。
「おい、相棒……」
オルフィは戸惑った。こんなクートントは知らない。
いや――彼女がこんな顔をしていたことが一度だけある。
彼ははっと思い出した。
あれはアイーグ村のハド爺が、病気で動けなくなった驢馬など殺してしおうとしていたときのこと。
当時の主人たるハドの考えをどこかで感じ取ったものか、クートントは怯えていた。
そのときの顔によく似ている。
「何、だよ。怖がることなんか、何も」
オルフィはそっと手を伸ばした。驢馬は大きくいなないた。それは恐怖の叫びだった。
「なっ、何ごとだ!?」
クートントの借り主が飛んできた。
「どうどう……どうどう!」
慣れた様子で農夫は驢馬の興奮を鎮めた。
「どうしたんだ? 大人しいクートントが」
「わ、判らない」
呆然とオルフィが答えると、驢馬はまた高く鳴いて逃げ出そうとした。農夫がまたしても懸命にそれを押さえる。
「何があったんだ?」
驚いた様子で農夫は彼に尋ねた。だが彼が訊きたいくらいだ。オルフィは呆然としていた。
(クートントが、俺を……怖がるなんて……)
(どうして……)
衝撃を受けた心でオルフィが思ったのは、クートントはオルフィを「前の主人」と考えたのではないかということだった。「前の主人」は怖ろしいと思い込んでいるのでは、というようなことだ。
しかしこれはオルフィが混乱しているための思考であった。クートントが賢いのでも愚かなのでも、不自然きわまりない考え方だ。
「クートント……」
「あ、そ……そうだ」
遠慮がちに声を出したのはマレサであった。
「馬、馬じゃねえ? お前から馬の臭いとかして、それで」
「クートントは馬を怖がったりしない」
ルタイの詰め所の馬たちとは挨拶する仲だし、知らない馬に対してもおののいたりしないのはジョリスと会ったときで証明済みだ。
「そ、そっか」
マレサは頭をかいた。
「そんな顔、すんなよ! そうだ、お前、疲れてんだよ。それで人相悪くなってんじゃねえ? だからそいつにびびられてんだよ」
子供は無茶苦茶なことを言った。
「休もうぜ! な?」
オルフィはクートントを見つめたまま黙っていた。
「なあ、おい」
マレサはオルフィの腕を引っ張った。
「オレ、疲れちまったよ。休みに行こうぜ。な?」
ぐいぐいと、彼女は腕を引く。
「なっ、おっちゃん。どっかいい宿知らない? 安いとこな。あ、でもあんまり不潔だったり、態度が悪いとこはなしな!」
「あ、ああ」
勢いよく話を振られて、農夫も目をしばたたいた。
「ここから町の中心街区の方へ戻れば、左手に青い壁の〈金色の泉〉って宿がある。厩舎もあるし、旅人の評判もいいみたいだ」
「〈金色の泉〉な。おっちゃん、あんがと!」
礼を言うとマレサはぐんぐんとオルフィを引っ張った。
「おいっ、オルフィ! オレは疲れたって言ってんだ! 宿に行くぞ!」
「あ……ああ、そうか。判った……そうしよう、か」
マレサが疲れていると言うのなら休ませてやらなければならない。保護者めいた義務感を思い出してオルフィはようよううなずいた。
(クートント……)
(いったい、どうしちまったんだ)
その場を立ち去りながらオルフィは名残惜しそうに後ろを振り返った。驢馬は彼を見ず、むしろ視線を逸らすように他方を見ながらまだ少し興奮をしていて、農夫になだめられていた。
オルフィはしばらく無言だった。
必要最低限のことは喋ったが――宿を取ったり、注文を頼むには口を開かない訳にいかなかった――それ以外はマレサが何を言っても生返事で、子供もまた腹を立てたようにむすっと押し黙るようになった。
結果としてふたりは、まるで険悪な間柄なのに同じ卓で食事をしているような、奇妙なふたりに見えた。
もっとも、一見したところでは、似ていないが少々年の離れた兄妹かとでも思われるところだ。給仕や周囲の客は彼らが兄妹喧嘩でもしているのだと思ったことだろう。
「……あのさ」
黙々と食事を終えたあと、口火を切ったのはマレサの方だった。
「がっかりしたのは判るけどさ、しょうがないじゃん? 動物だぜ? オレも市場の近くで野良猫に餌やって懐かれたことあるけど、少し経ったら触らせもしなくなってさ」
そんなもんだよと子供は大人びて言った。
「クートントは」
そんなんじゃないと言い返しかけて、オルフィは口をつぐんだ。
(マレサに諭されるなんて、カナトに何か言われるより)
(……酷いって言うか情けないって言うか)
一旬かそこらでクートントが彼を忘れるとは思えない。思いたくないだけかもしれないが、忘れられただけならまだしも、怖がられるのはおかしな話だ。だが実際クートントは彼を見て怯え、マレサは呆れているんだか気の毒がっているんだか知らないが、「動物相手に仕方ない大人だな」とは思っているだろう。
何も見栄を張るつもりはないものの、これではいけないと思った。
カナトのことが思い出される。ちっとも「お兄さん」らしくできないまま、分かれたのだ。代わりにと言うのも奇妙な話だが、せめてマレサには。
「悪かったよ」
彼は呟くように言った。
「つき合いの長い、相棒みたいなもんだからさ。確かに衝撃だったし、がっかりした。でもあのおっさんのところにまだ預けておくんだし、迎えにきたと思わせて喜ばせても可哀相だもんな。理由は判んないけど、ちょうどよかったってことで」
考えながら言えば、マレサはぷっと笑った。
「何だよ」
「喜ばせるとか可哀相とか。驢馬だろ?」
「だから、荷運びの相棒なんだよ。クートントがいなきゃ俺は仕事ができなくて」
「変な奴ぅ」
けらけらとマレサは笑った。「変態」改め「変人」か、とオルフィは少々嘆息したが、これは誤解ではなく価値観の違いであるから、訂正もできないというものだ。
(まあ、でも)
(マレサが楽しそうだからいいことにするか)
ずっと仏頂面だったマレサが楽しそうに笑っている。自分が道化になって子供を笑わせるのはよくやっていたことだし、抵抗もない。オルフィも一緒になって笑ってみた。すると、もやもやが少し晴れる気持ちだった。
クートントの態度は気にかかる。だが、全部片づいて彼女を引き取ることになったら、じっくり話して――笑われても――また以前のような信頼を取り戻すまで頑張ろう。そんなふうに思った。
理由は判らない。判らないから、彼はそれ以上突き詰めなかった。
驢馬が動物の本能で何を感じ取ったのか、彼は知る由もないままだった。