03 逃げやしない
マルッセの町で足をとめた理由は幾つかある。
ひとつには単純に、休まなくてはならないということ。彼ひとりなら多少の無理も利くが、マレサ連れではそうもいかない。
もうひとつには、シレキが戻っていないかと思ったこと。普通に考えれば馬でやってきたオルフィよりも早いはずはないが、あれでも一応、魔力を持っているという話だ。
でも何よりも気になったのは、相棒たる驢馬のクートントのこと。
シレキの知人という預かり主は悪くない人のようだったし、扱い方についての心配はしていないが、年寄りのクートントが変わった環境に疲れてしまっていないかは気にかかる。
「驢馬なんて」
馬を引きながら町を歩きつつ説明をすれば、マレサは驚いたようだった。
「こんな立派な馬を持ってるのに」
「こいつは俺のじゃないんだ」
「はあ?」
「いや、その」
気がついたら連れていたとか、そんな話をしても仕方ないだろう。頭がおかしいと思われかねない。ようやく「変態」から脱却したようであるのに、次は「狂人」ではたまらないというものだ。
「えっと、預かっ、た」
「馬を?」
「そ、そう。うん。預かったんだ」
クートントを預けたという事実からぽろっと出てきた連想に、オルフィはこくこくとうなずいた。
「知り合いが、好きに使っていいって。貸してくれた訳だ」
「すごい知り合いがいるんだな」
馬をぽんと貸せるなんてずいぶんな大尽だとマレサはそんなふうに考えたようだった。
「まあ、その、調教師で。いろんな馬を扱ってて」
シレキを思い出しながら彼は適当なことを言った。調教師は動物を訓練するだけで所有する訳ではないが、マレサは特に疑問に思わなかったようだ。
「それで、お前がほんとに持ってるのは驢馬?」
「まあね」
「その方が分相応って感じだな」
うんうんと今度はマレサがうなずいた。オルフィは怒らなかった。自分でも全くその通りだと思う。
「少し様子を見るだけだから」
「別に文句なんか言いやしないよ」
「ほんとに?」
思わずオルフィは胡乱そうに問うた。マレサはキッと睨んだ。
「い、いや、だって、もっと急げと言われるかと」
「……さすがのオレもな」
ぽそっとマレサは呟いた。
「……が……い」
「うん?」
聞こえない、とオルフィは正直に言った。
「尻が痛い!」
「あー、成程」
オルフィは大いにうなずいて納得した。すると痛烈な蹴りがすねにやってきた。
「いてっ、何すんだっ」
「お前のせいだっ」
「何でだよ!?」
馬上の彼女を快適にしてやることまで彼の義務にはない。いや、義務は何ひとつないが、快適にしてやれるのならなるべくそうするつもりだ。少なくとも意地悪から不快にさせたりはしていない。
「お前がみんな、悪い」
またしても睨まれた。
(読めない子だなあ、もう)
(いや、ある意味、読めるのかな)
腹立たしいこと、都合の悪いことはみんな誰かの――いまはオルフィの――せい、という訳だ。
「判った判った。みんな俺のせいでいいよ。とにかくちょっと休もうな」
疲れていると癇癪も起きやすくなる。オルフィは辺りを見回した。
(知ってるのはおっさんに会った食事処くらいか)
(マレサに飯を食わせておいて、その間にクートントを見てくればいいかな)
「おいっ、何を考えてる」
「休む場所だよ。携帯食料ばっかりでつらかったろ。今日はあったかい飯――」
「食わせてる間に逃げようってんじゃないだろうな!」
犬のようにうなりながら、女の子はそんなことを言い出す。
「逃げやしないって。俺が君から逃げようと思ったらとっくにいつでも可能だったんだけど」
馬から下ろして、走り去ってしまえばそれでおしまい。彼はそう説明した。
「でも、そういうことはしないって言ったろ? 礼を言いに行こうって」
諭すように言えば子供は黙った。
(信じてないのかな)
(何だかんだと言っても悪人だとは思われてないはずだけど)
そうであれば馬に同乗したりはするまい。
(信用しきれないってところか)
子供だな、と思った。まさしく、後先考えずに走り出した子供。
(ま、俺も似たようなもんか)
これまでのこともそうだが、いまだってどうしてナイリアールに向かおうとしているのか判らないまま馬を走らせている。判らないことを立ち止まって考えるより、動いていたくて。
「休むときはお前も一緒だ。先に驢馬の様子を見に行くって言うなら、オレも行く」
マレサはそう主張した。
「疲れてないか?」
「へーきのへーすけだっ」
ふんっとマレサは鼻を鳴らした。
「おら、とっとと行こうぜ!」
判ったよ、とオルフィは肩をすくめて歩き出した。
クートントが預けられているのは、町外れの小さな農家だった。収穫物を運ぶ程度の仕事をさせたいという話で、それならオルフィが普段やっていることと大差ない。やはり心配なのはクートントの「気持ち」だけだ。
「――おや、あんたは」
シレキの知人の農夫はオルフィの姿に気づくと目をしばたたいた。
「戻ってきたのか。とすると、驢馬を返さなくちゃならんのか?」
「ああ、いやその、もうちょっと預かっててもらいたいんだけど」
まずオルフィはそう答えた。
「通りかかったから様子を見にきたんだ」
「そうか。驢馬なら向こうの裏にいる」
「調子はどうかな?」
「よく働いてくれてるよ。あんなに賢い驢馬は初めてだ」
「そっ、そっか」
オルフィは自分が褒められたように嬉しい気持ちになった。
「体調の方も問題ないかな」
「ないとも。疑うなら見てきてくれ」
「疑うなんてんじゃないよ。顔見にきただけで」
「顔を?」
その言いようは相手にとって少し可笑しかったと見えた。彼はくすりと笑ったが、決してオルフィを馬鹿にしたのではなく、微笑ましかったというところだろう。
「その馬は?」
「あ、ええと」
どう説明したものかと迷ったオルフィだが、クートントの借り主は別に詮索するつもりではなく、驢馬を見る間は預かっておこうかと申し出てくれただけだった。有難くオルフィはその言葉に甘えて手綱を渡した。
「そうだ。シレキのおっさんは、戻ってきてる?」
「シレキ? いや、あれ以来見ないな。やっぱり、どっかに行ったのか。まあ、よくあることだが」
「やっぱり? よくあること?」
オルフィは目をしばたたいた。
「どういう意味だ?」
「あいつはいい奴だが妙なところもあってな」
農夫は両腕を組んだ。
「時折、ふらっといなくなっちまうんだ。一日二日で戻ることもあれば何月も音沙汰がない場合もある。どこへ何をしに行っていたのか訊いてもへらへら笑うばかりできちんと話さんし」
「へえ」
少し意外だった。ずっとこの町に居座っていたのだと思っていたからだ。
「動物を手懐けるのが巧いんで調教師なんてやってるが、この町にくる前はどこで何をしていたか誰も知らないんだ」
「へっ?」
この町の出身でないことはそれほど驚くに当たらない。生まれた村で生涯を過ごす者もいるが、一旗揚げようと田舎から都会へ出る者も珍しくないし、逆に都会に疲れて田舎にやってくる者もいる。
南西部ではあまり人の出入りは多くないが、それでも皆無ではない。ルタイの詰め所絡みが代表例で、兵士になろうと首都へ行く若者や、村娘と恋をして付近の村に居着いた兵士もいる。身近で言うならオルフィの父ウォルフットだってアイーグ出身ではない。料理を覚えたのはもう少し首都に近い町でのことだったとか。
そう、以前にどこで何をしていたかというのは普通、話題に上るものだ。本人が隠そうと思っていない限り。
「開けっぴろげなようだが、謎の男なんだよ」
少し冗談めかして農夫は言った。過去がどうであろうと調教師としての腕は確かだし、悪人でもないから問題は覚えないというところだろう。
「ふうん」
呪いをかけられている云々という話はもしかしたら真実なのだろうかと――シレキは真実だと言い張っていたが――オルフィはようやく少しだけ思った。もっとも「ラバンネルである」だけは有り得ないことが幾人もから証言されているが。
(本当に、何であんなこと言ったんだろうな。すぐばれるのに)
あのときたまたまラバンネル当人を知る老人に出会わなかったとしても、もともとオルフィもカナトもそんな話は信じなかった。ラバンネルが〈閃光〉アレスディアに気づかないとは思えなかったからだ。
(まあ、おっさんはあのときアレスディアのことを知らなかったんだし、ちょっとした冗談くらいのつもりだったのかもしれないけど)
そんなところだろうとオルフィは結論づけた。