10 しるし
「何でも黒騎士はもうひとりいるらしい。だが素性は判っているようだし、すぐに捕らえられる当てがあるんだろう。もしかしたらそれも新しい英雄の手柄になる『予定』なのかな」
くすりとラスピーは笑った。
「ともあれ、しばらくは大騒ぎだろう。ほかのどんなよい話も悪い話も影に隠れてしまうだろう。〈白光〉殿の件を公表するいい機会かもしれない」
肩をすくめてラスピーは続けた。
「それから、王子殿下の婚約者の噂も」
「そんな噂があるの?」
「いいや。たとえば、さ」
ひらひらと紀行家は手を振った。
「ところで」
こほん、と彼は咳払いをした。
「何もこの話を伝えにやってきた訳ではないんだ」
「あら」
そうなんですか、とリチェリンは目をしばたたいた。
「ではご用事というのは?」
「リチェリン嬢」
真剣に彼は彼女を見た。
「頼みがある」
「私にできることでしたら」
神女見習いは胸に手を当てて答えた。
「何、難しいことではない」
ラスピーは部屋にある寝台に座ると、隣をぽんと叩いた。座れということであるようだ、と気づくとリチェリンは首をかしげながらも従った。
「頼みと言うのはだな」
「はい?」
小首をかしげて彼女は続きを促す。
あくまでもラスピーは笑みを浮かべる。
「服を脱いでもらいたい」
沈黙が降りた。
五秒、十秒、二十秒。
「え……ええっ!?」
ぱっとリチェリンは立ち上がろうとして――その手首を掴まれた。
「できることならする、と言ったね?」
ラスピーは笑んだままだった。
「私の頼みは、不可能なことではあるまい?」
「そそそそれはそうですけれど、でもっ」
男と女のことくらいは知っている。知識の上でだが、充分だと思っている。そしてラスピーを信頼したことも間違っていないと――。
「あの……冗談、ですよね?」
いささか表情を引きつらせながらリチェリンは笑みを浮かべ、男の手を振り払おうとした。だがラスピーもまた笑ったまま、その手を放さなかった。
「本気だとも。可愛いリチェリン嬢」
「きゃ……」
男はぐっと力を込めて彼女を引っ張ると、寝台の上に倒した。そしてそのままのしかかるようにして女の細い両手首を片手で捕らえ、押さえつける。
「大丈夫。怖くないからね」
「やっ、やめ……放して下さい!」
リチェリンは抵抗を試みたが、男の力に敵うはずもない。
「自分から脱いでくれれば、こんな無体をしなくてもいいんだが」
ラスピーの手が衣服にかかった。
「嫌だと言うのであれば仕方ない」
「やめて! ラスピーさん、あなたは、こんなことをする人じゃ」
「信頼していただけて実に嬉しい。だが言ったろう? 男は、いつ豹変するか判らない生き物だよ。この先は注意をするんだね」
容赦なく、その手が上衣をたくし上げていく。下着があらわになる。そして、物心ついて以来異性の手も目も届いたことのない柔肌が燭台の灯りに照らされた。
「ああ、思った通り。君の肌はとてもきれいだ。やわらかくて白くて、光り輝くかのよう。これを隠しているなんて、むしろ罪だ」
くすくすと、楽しげな笑い声。
「やめて、下さい。もう……」
リチェリンの声は震えた。ラスピーへの怒りや、信頼したことへの後悔などより、彼女にあるのはただただ羞恥だった。恥ずかしさのあまり、消えてしまいたかった。
「いいや。これからが本番だ」
囁くとラスピーは一瞬にして彼女を抱き起こし、腕のところでとまって脱がし切れていなかった上衣を一気に引き上げた。逆らおうとしたが無駄だった。胸当て一枚を残し、リチェリンの上半身は半裸となる。
「さて――」
「いやっ」
わずかに自由になった両手で抵抗をするより、娘は反射的に身体を隠すようにした。
「もうやめて! お願いです!」
「駄目だよ」
男は首を振った。
「ここからが本番だと、言ったはずだ」
その両手が伸びる。リチェリンの両肩が掴まれた。
「さあ……見せてご覧。君の、本当の――」
「何をしている!」
ばたん、と扉が開かれた。かと思うと疾風の如く飛び込んできた影がラスピーを彼女から引き剥がし、寝台に叩きつけた。
「ラスピー。貴様、そのような外道であったか」
「やあ、これはこれは」
髪を乱して、紀行家は苦笑いを浮かべた。
「ヒューデアさん!」
剣士の名を呼んでリチェリンははっとし、慌てて上衣をかき集めた。
「おおっと、駄目だよ。せっかく脱いでもらったのに」
手が三度伸び、リチェリンの腕を捕らえる。
「貴様」
ヒューデアはラスピーの胸ぐらを掴んだ。
いや、掴もうとした。
驚くべきことに、紀行家は剣士の手をさっと払い、立ち上がってリチェリンとの間に立った。
「ちょうどいい。君にも見てもらおう」
「何だと」
「リチェリン嬢。あちらを向いて」
「え……」
「背中を見せてくれないか」
真剣な声でラスピーは言った。
「ずっと気になっていた。アミツが君を指したという話。オルフィに何があるにせよ、彼の幼馴染みで彼の味方だというだけの理由とは思えない」
アミツの名にヒューデアもはっとした顔を見せた。
「リチェリン。君の背中には、エクールの神子のしるしがあるんじゃないのか」
「え……?」
彼女は目をぱちくりとさせた。
「し、しるしですって? ないわ、そんなもの」
リチェリンはぶんぶんと首を振った。
「それを見ようと? そんなこと……ただ、訊いてくれたらいいのに……」
「尋ねるだけでは、否定されたら終わりだろう。私は何としてもこの目で確かめたかった」
「それは言い訳か?」
ヒューデアが剣に手をかけた。ラスピーは両手を上げて降参するようにした。
「確かに、言い訳かもしれない。私の好奇心と探求心が原因という訳だよ。驚かせ、怖がらせたリチェリン嬢には心よりお詫びする」
「詫びて済む問題ではない」
「ことに及んだ訳じゃない。それどころか、あのような美しい肌を誰の目にも触れさせないとはむしろ罪だ。ファラサイの裸婦像でも見ているようで、感動こそすれ邪な気持ちは一片たりとも浮かばなかった。誓おう」
ラスピーは誓ったところで誰にも益も損もないようなことを誓った。
「もっとも、もしかしたら君自身、知らないのかもしれない。背中は見えないからね」
口の端を上げると彼はまたリチェリンを振り返り、抱きかかえ上げた。
「きゃ」
「ラスピー!」
「叫ばないでくれ。騎士の前でこれ以上暴行を働けるはずもないだろう」
そう言ってラスピーはリチェリンに後ろを向かせるとその首筋に手を差し込み――冷えていた手に、彼女はぞくりとした――背にかかる髪をかき上げた。
「……これは」
ヒューデアは息を呑んだ。
「そう。君も知っているだろう」
「アミツのしるしによく似ている」
「いいや」
ラスピーは首を振った。
「これはエクールのしるしだ」
「な、何……」
「やはり知らないんだね。君の背にあるものを」
「あざが……」
彼女は呟いた。
「大きなあざがあることは、知っています」
子供の頃、姉妹のように一緒に育った女の子のひとりが、子供特有の素直さと残酷さで指摘してきたことがあった。養母のようなルシェドは娘を叱り、気にしないようリチェリンに言った。
全く気にしないというのも無理な話で、何度か彼女は合わせ鏡を使ってそれを確認してみようとしたのだが、難しかった。全身を映せる大きな鏡はほとんどなかったし、あったとしても上半身をはだけられるような場所ではなかったからだ。
見たことのないあざは彼女に劣等感のようなものを抱かせていた。神女の道を志した理由はいろいろあったが、これもそのひとつだったと言える。だがそのことは誰にも――タルーやオルフィにも――話したことはなかった。
「あざじゃない」
ラスピーは静かに言った。
「これはエクールのしるし……君が、十余年前に行方不明となった『エク=ヴーの神子』であるしるしだ」