09 それだよ
何の収穫も進展もない日々、というのは驚くほど心を落ち込ませるものだった。
首都ナイリアールに滞在して早ひと月――。リチェリンはため息をつくことが多くなってきた自分に気づいた。
(真実を……なんて意気込んだけれど、手がかりはお城のなか)
(最初に判った以上のことは何も掴めていない)
この街にはたくさんの旅人が訪れる。彼女はいくつもの酒場や食事処に出向いて、詩人はもとより学者のような人物にも話を聞いてみた。だが籠手について詳しく知っている者は誰ひとりおらず、「アバスターの籠手」「王家の宝」というラスピーやヒューデアがもたらした話がほとんど全てだった。
それでも何とか手がかりをと同じことを――無駄なこと、とは言いたくなかった――繰り返してきたが、このところは神殿の騒動もあって、あまり旅人から話を聞くこともできずにいた。
「神殿の騒動」。
火つけが起きたのは、あの晩だけではなかった。
もちろん神殿も町憲兵隊も再発を警戒し、厳重な警備に当たっていた。それにもかかわらず、ナイリアンの中心たる首都ナイリアールの八大神殿に、火つけは続いたのだ。
深夜の出火で、目撃者はない。町憲兵たちがほんの少し後ろを向いた隙に火がつけられていたこともあると言う。
だが、犯人は判らない。
最初の晩と同じように発見は早く小火で済んでいるが、一時期は広いナイリアール中がこの話題で持ちきりだった。
いったい誰が、何の目的で。
いや、それはだいたい、判っているとも言われた。
〈ドミナエ会〉。その存在は一部を除いてそれほど有名でもなかったが、この出来事で一気に人々に知られるようになったとも言える。
フードのついた白いマントに、血で描いたような赤い紋章。見るからに怪しいと言える風貌、大いに目立つはずの〈ドミナエ会〉の会員は、しかし街なかでは見られなかった。もっとも、その白装束さえ脱いでしまえば判らないということもあるだろう。目立つ格好は逆に隠れ蓑なのかもしれなかった。
人々はこれまで田舎の噂、一種の怪談のように考えていた〈ドミナエ会〉が八大神殿に正面から喧嘩を売りはじめたと大騒ぎだった。
その出来事に続いて公表された、ジョリス・オードナーの騎士位剥奪。
騒ぎはますます大きくなり、街中の誰もが〈ドミナエ会〉かジョリスの話をしていたと言っても過言ではなかった。
どちらも楽しい話ではない。不安を誘うだけの出来事だ。ナイリアールは黒騎士の噂に加えて、薄暗い霧に包まれているところだった。
旅人たちの話題もそうしたことに終始し、三十年前の英雄の話に持っていくことさえ難しかった。
もとより――リチェリン自身も、気にかかる。
黒騎士とジョリスの件はオルフィへの心配に繋がるし、神女見習いとして〈ドミナエ会〉のことも心配だ。
心は何だか暗くなるばかり。前向き、上向きになる要素に出会えなかった。
(いいえ、そんなことでは駄目よ、リチェリン)
彼女はいつものように自分を励ました。
(神は見ていて下さるわ。必ず、報われるときがくる)
(どうか神よ……私のことはいいのです。オルフィを守って下さい)
毎日のように繰り返す祈りをまた繰り返し、彼女が目を開けたときだった。こんこん、と扉を叩く音がする。
「はい?」
驚いて彼女は腰を上げた。宿に滞在して長いが、ここに客がやってくることはない。たまに宿の人間がやってくることはあるものの、たいてい日のある内であり、こうして夜になってからということはまずなかった。
「どなた……あら」
扉を開けるとリチェリンは目をしばたたいた。
「ラスピーさん」
「やあ、こんばんは、リチェリン嬢。よい夜だね」
「はい、どうも、こんばんは」
いささか間の抜けた挨拶を返してしまったのは、意外だったからだ。
「どうしたんですか?」
ラスピーやヒューデアは、朝に迎えにきて行動を共にし、夕飯兼情報収集を終えてから分かれる。彼らが紳士的に――または騎士のように――彼女をこの宿まで送ってからだ。
そしてそのあと、彼らがやってくることはない。この初めての訪問にリチェリンは驚いた。
「うむ。実は話があってね」
ラスピーはちらりと部屋を見た。
「入ってもよろしいかな?」
「え?……あ、はい」
一瞬だけ躊躇したリチェリンだったが、彼らのことはもうすっかり信頼している。彼女は扉を大きく開けて、訪問者を通した。
「成程。狭いが清潔感のある、よい部屋だな」
「広さは充分です」
リチェリンは答えて扉を閉めた。
「長居してしまって申し訳ないくらいだわ」
相変わらず宿の主人は、たまの子守りだけで彼女を泊めてくれている。有難いが申し訳ないというのは本当の気持ちだ。
「確かにここの主人は人が好いようだ。だがリチェリン嬢、油断はならない。人間の男という生き物はいつ何時豹変して、ご婦人に襲いかかるか知れたものではないからな」
「まさか、ここのご主人が」
くすくすとリチェリンは笑った。彼はどこからどう見ても、妻と子供を思いやる立派な親爺さんだからだ。
「いやいや、その『まさか』がいけない」
ちちち、とラスピーは立てた指を振った。
「お話というのは?」
首をかしげて彼女は尋ねた。
「もしかして先日の、神殿を急に離れた理由ですか?」
「うん? いや、そのことではない。あれは野暮用でな、すまなかった」
「いえ、いいんです。ヒューデアさんとも、喧嘩なさる訳ではないみたいですし」
あの翌日もラスピーに様子のおかしいところは特になく、ヒューデアも突っかかったり不審そうな眼差しを向けることはなかった。内心でどう思っていたとしても。
そうなればリチェリンが口を挟むことはない。少なくとも彼らのことについてはだ。ただ、もしラスピーが何か話したいことでもあるなら聞くつもりだった。
しかしそうではないと言う。
では何なのか。リチェリンはラスピーを見つめ、ラスピーはにっこりと笑みを浮かべた。
「王城で大変な騒ぎが起きたよ」
「何ですって?」
「噂の黒騎士が城に侵入し、こともあろうに王陛下に斬りつけたそうだ」
「まあ!」
とんでもない話にリチェリンは仰天し、口に手を当てた。
「何という怖ろしい! 陛下は? ご無事でいらっしゃるの?」
「少なくとも崩御という知らせはないようだ」
一方でラスピーは気楽に言った。
「もっとも黒騎士は成敗されたそうだ。ふふ、いったい誰が噂の悪党を退治したのだと思う?」
「誰って」
リチェリンは目をしばたたいた。
「お城の兵士ではないの? 騎士様ということ?」
「当たりだ」
ぱちん、とラスピーは指を弾いた。
「『騎士様』。では、いったいどの?」
「判らないわ。私、あまり詳しくないんだもの。ジョリス様とハサレック様のお名前くらいしか知らないの」
「それだよ」
ラスピーはにやりとした。
「え?」
きょとんとリチェリンは首をかしげる。
「〈青銀の騎士〉ハサレック・ディアが生きていたんだ。そして劇的に黒騎士を退治した。英雄の誕生だよ。何ともわくわくさせられる話じゃないか?」
「まあ」
彼女は口をぽかんと開けた。
「まあ、何てこと」
あまりに呆然として、そんな意味のない言葉を繰り返すしかできなかった。