08 支配
恐怖がやってくる。
不吉な月傘の女神が紺色の夜空に輝いていた。
もっとも、ピニアは夜空を見上げることなどもうずっとしていなかった。
あの美しい最後の夜のことが思い出されれば、つらいだけだから。
「よい夜ですな、我が美姫よ」
「恐怖」が喋った。ピニアは身を震わせた。
「調子は如何ですかな? 食事をほとんど摂っていないようだと、使用人が心配しておりましたよ。多少無理をしてでも、食べた方がよろしい。そうでなければ健康を害するばかりでない、美しい肢体が損なわれてしまいますからね」
含み笑いをしながら魔術師は言った。
「何日かお邪魔できず、寂しい思いをさせましたかな? ひとり寝は心許ないでしょう。――いつ私がやってくるかと、気が気ではなくて」
すっとコルシェントが歩み寄る。その分だけ下がりたくても、ピニアの足は動かなかった。魔術をかけられているのか、恐怖で身がすくんでいるのか、それすらもう判らない。
「ずいぶんと痩せたのではありませんかな。やれやれ、まだあの男のために泣き暮らしているのですか? 私が慰めて差し上げているのに」
にっと男の口の端が上がる。
「あなたの望む姿で」
ピニアはぎゅっと瞳を閉じた。繰り返される怖ろしい夜。
初めてだった。
憧れの相手とだって、あのようなことを望んだ訳ではないのに。
「そんなに震えなくていい。いまはあなたの身体に用はありません」
ふっと笑って魔術師は言った。
「訊きましょう。――何を視ましたか?」
びくりとした。
「な……」
舌が巧く動かない。
魔術か。恐怖ゆえなのか。
「ふう」
嘆息してコルシェントはぱちりと指を弾いた。魔術を解いたのか。それとも魔術で彼女の極度の緊張を弱めたのか。
判らない。仮にも魔力を持つ者であれば、それくらいのことは把握できるはずなのに、判らない。
とにかく怖れ、とにかく身を強ばらせていることだけは確かだった。
「もう一度訊きますよ。今日この日、あなたはどんな星を読みましたか?」
「あ……」
言ってはならない。この男に何も告げてはならない。彼女の理性はそう言った。これまでも何度も言ってきた。だがコルシェントの魔術は彼女を支配する。
隠すことはできない。
何も。
「疾い……光が」
「光」
コルシェントは眉をひそめた。
「『占い』をじっくり聞く気分ではない。その光が何であるのか、お前は知っているはずだ。はっきりと語れ」
「籠手、です。いえ、籠手の主」
意志に反して言葉が出てくる。
「籠手の主がナイリアールに戻ってこようとしています」
「ほう」
コルシェントは面白がるような顔をした。
「成程。何もあやつが探しに出向かなくてもよいという訳だな。ニイロドスの計らいであれば、褒めてやってもよさそうだ」
悪魔が聞けば鼻で笑っただろう。「ニンゲン」が彼を「褒めてやる」など。
だがコルシェントとて何も、ニイロドスがいないところで主面をしたという訳ではなかった。
彼は、そう思っているのだ。
悪魔には強大な人外の力があり、もしニイロドスがコルシェントを殺そうと思えば簡単だろう。指を鳴らして彼を消滅させるようなことすら、あるかもしれない。
だがニイロドスはそうしない。コルシェントのやることを見届けるつもりだからだ。
そこに魔術師は自信を持っていた。
獄界の生き物を思うままに操れるとは考えていない。しかし、駆け引き次第で動かすことは可能だ。
事実、ニイロドスが「籠手の主」を呼び寄せているのであれば、この駆け引きは巧く働いているということになる。
「どうか……怖ろしいことは、おやめ下さい」
コルシェントの企みを彼女はほとんど知らなかったが――寝台で男の口は少しだけ軽くなったものの、具体的なことは何も洩らさなかったし、彼女自身、聞いて覚えていられるような状態ではなかった――、判ることもある。
つい先ほど。ヒューデアが帰ったあとになって、使用人が知らせてきた大きな事件。
ハサレック・ディアの帰還と、黒騎士退治の報。
黒い剣士はもうひとりいるとのことだったが、もうその素性は判っていて、捕縛と処刑は間近だと伝えられていた。
使用人たちはめでたきこととして女主人を喜ばせようとその話を伝えたものの、彼女はそこに影を感じて仕方がなかった。
新たなる英雄の誕生。本当に、そうなのだろうか?
ハサレックの帰還や、よもやジョリスの死までが、この男の掌の上なのでは?
それは憶測に過ぎなかった。彼女は何の材料も持っていない。
彼女にあるのは〈星読み〉の力だけ。
しかしその力も、コルシェントに利用されるかと思えば――。
「まだ、役者が足りぬな」
魔術師は顔をしかめた。
「お前も〈湖の民〉のはしくれであれば、神子の行方を見つけてみてはどうなのだ」
「わ、判りません」」
どうにか彼女は答えた。
「何度も申し上げています。判りません。本当です」
「嘘だと糾弾はしていない」
コルシェントは手を振った。
「いまのお前は、私に嘘などつけんからな」
縛られている。完全に。
これはコルシェントの魔力が彼女のそれを大いに上回っているせいもあったが、力ずくで為された〈ロウィルの結びつき〉のためもあった。
魔術師であれば、初めてのまぐわいにはただの娘よりも気をつけなければならない。相手が邪な企みを持って彼女を魔力ごと支配しようとすれば、それが可能であるから。
コルシェントは判った上で、彼女を抱いた。陣を描き、術を行使して、娘の「初めて」に呪いをかけた。
逃れられないのだ。この結びつきからは。彼女に魔力が、あればこそ。
「だがいつまでも『判らない』では、私は満足しない。判るな? ピニア」
魔術師は手を伸ばし、女のあごを掴むと顔を上向かせた。
「〈湖の民〉にして有能な占い師。本気で探していたなら、そろそろ手がかりのひとつも見つかってよいはずだ。お前は確かにまだ何も見つけていないが、それは本気で見つけようとしていないから」
「わた、しは」
「探せ」
手に力を込め、コルシェントは命じた。
「星が読めぬと言うのであれば、違う手段を使え。お前は私に隷属しているのだ。身体だけで許されるとは思っておるまいな」
「違う、手段など……私には、〈星読み〉しか」
「誤魔化すな。エクールの生まれである以上、お前はあの湖と繋がっている。昔から王城に入り込んできた者たちがそうだったように」
「王城に、入り込んで……?」
「そうだ。彼ら自身もお前も、間諜であるつもりなどはないだろう。だがお前たちはエク=ヴーが使わした存在だ。湖の、いや、〈はじまりの民〉としてこの国を守るべく」
「何を」
ピニアはようよう声を出した。
「何を仰っているのか、判りません」
「恍けるな……と言いたいが、嘘はつけぬのだったな。ならば本当に何も知らぬのか。だがそれでもかまわん。守り人の務めを知らなかったところで、その素質に変わりはない」
「守り人と呼ばれるのは、村の戦士で――」
「そのような話をしているのではない」
魔術師は〈湖の民〉の言葉を遮った。
「お前が王城に呼ばれた理由が判っているか。占いに長けているから。若く美しい女だから。どちらも正しい。だがそれだけではない」
コルシェントは息がかかるほどピニアに近く寄った。
「『〈湖の民〉であるにもかかわらず王が能力を公正に判断した』? 否。〈湖の民〉だからこそだ。そうであるからこそ、お前に目をつけた。但し、レスダールではなく私が、な」
ふっと手の力が緩められ、指先が彼女の頬を撫でた。
「お前を取り立ててやったのは私だということだ。これから先も何不自由ない暮らしをしたければ、お前自身の意志で私に従うが得策というものだぞ」
声音は不気味に優しかった。ピニアは目を閉じ、顔を背けた。
「――強情な」
コルシェントは舌打ちをし、指先を離した。
「陣を用いて支配したとて、〈星読み〉だけはどうにもならぬと言うに」
ピニアはただ、震える身体を抑えようと必死だった。
「気が変わりました、ピニア殿」
男は冷たい笑みを顔に上せた。
「少々お仕置きをいたしましょう」
そう言ったコルシェントの顔は、ピニアの恋する男そっくりになっていた。それを認めた彼女の青い顔はますます白くなる。
「おっと、うっかりしたことを言ったようだ。これは貴女への慰めであるのに……な」