03 ひとりでどこに
〈カリオール〉号に似た馬はよい馬で、彼の指示をよく聞いて懸命に走った。最低限の休息を取りながら――少し疲れやすいように感じた――、彼はやがてディセイ大橋にたどり着く。
生憎と言うのか、橋上市場は混雑している時間帯だ。駆け抜けることはできないばかりか、馬を引いて通るのも困難そうだった。
だがここで足をなくす訳にはいかない。先を思えば、少し時間を潰しても馬を連れる方がいい。彼は逸る心を抑え、日が落ちるのを待つことにした。
「――あれ?」
馬を休ませる場所を探していたときである。すれ違った少年が足をとめた。
気づかれたか、と思った。
彼は〈白光の騎士〉ほど知られてはいないものの、名もなき人物と同じとはいかない。〈漆黒の騎士〉がここで何をしているかと騒がれれば面倒なことになるかもしれないと――。
「兄さん! あんた、オルフィ兄さんじゃないか」
青い帽子をかぶった少年が気軽に声をかけてきた。
「……何?」
「ひとりかい? マレサから聞いたけど、一緒にお仲間がいるんだろ? 立派な馬なんか連れちゃって、ひとりでどこに行くんだ?」
「どこ……」
彼は目をしばたたいた。
「俺は、ナイリアール、に」
「ああ、首都は大騒ぎだってな」
少年は知った顔でうなずいた。
「誰か大事な人でもいるのか? でもまあ、そんなに心配しなくても大丈夫だと思うぜ。狼藉者は立派な騎士様が退治なさったっていう話なんだし」
「大事な……」
ふっと、何かが浮かんだ。
何か暖かいものが、彼の胸に。
「あ……」
ナイリアール。首都。連れ。大事な――。
「リチェ、リン」
オルフィは呟いた。
「あれ、俺……なに……?」
「急いでんのか? でもいま、馬を連れて橋は渡るのは無茶だ。飯でも食ってけよ」
「馬? え?」
深い眠りから目を覚ましたばかりのように――そうだとも、言えた――オルフィはまばたきを繰り返す。
「へ?……何、この馬」
「何って」
情報屋バジャサ少年もまた目をぱちくりとさせた。
「兄さんの馬だろ? 違うのか?」
「お、俺のじゃないよ。乗れないし」
慌ててオルフィは手を振った。
「へえ? 何だか慣れた調子で引いてたみたいだけど」
「俺が?」
「ほかに誰がいるんだよ」
呆れたように少年は問うた。
「兄さんの馬じゃない?……じゃ、かっぱらった?」
「へっ?……そっ、そんなことするかよ!」
ますます慌ててオルフィは否定した。
「俺はそんなこと」
もちろん、していない。
だが、彼が馬を連れている理由も判らない。
第一、そんなことよりも。
「カナト! それに、おっさんは!?」
ひとりだ。彼は。どうして、ディセイ大橋の手前に。
「夢……?」
まさか夢だったのか。オルフィの内にはそんな思いも浮かんだ。橋を渡ったところから北東へと旅したことは夢だったのではないか。ジョリスの白光位剥奪も、あの美しい湖面も、カナトが倒れたのも、長老の不可解な態度も。
そんなはずはない。彼は寝台で目を覚ました訳ではないのだ。いままで夢を見ていたなどということがあるはずがない。
だと言うのに彼はきょろきょろと周囲を見回した。カナトやシレキの姿がないかと。
もちろん、彼らの影は見つからなかった。オルフィは額に手を当てた。
「どう、なってんだ……?」
「もしかして、はぐれたのか?」
少年情報屋はそう問いかけ、笑った。
「いい年して迷子かよ!」
「い、いや、そうじゃなくて」
オルフィは否定したが、状況は自分でもさっぱり判らない。彼はエクール湖の畔の村にいたはずだ。昨夜は奇妙な出来事があって。
(昨夜?)
つきん、と頭が痛んだ。
(奇妙な話を聞いたような)
羽根飾りの付いた帽子をかぶった青年の姿がふっと脳裏に蘇った。
(あっ、あいつ)
そうだ、と彼は思い出した。畔の村の雰囲気に似合わない、芝居役者のような格好をしたあの青年。彼が突然姿を見せて、訳の判らない話をした。
(何を)
(話したん、だっけ?)
とてもおかしな、有り得ないと一笑に付すような話をした。そんな感覚がある。
だが内容がよく思い出せない。
(それに)
(何だかあれから、しばらく時間が、経ったような……?)
「しっかし、それにしても兄さん、ずいぶん出世したもんだね」
「はっ?」
何を言われたのか判らなくてオルフィは素っ頓狂な声を上げた。
「だってその馬だけじゃない、左腕の籠手!」
「え」
慌てて左手に視線を移す。〈閃光〉アレスディアがあらわになっていた。
「やっ、やべっ」
右手でそれをさするようにしたが、もちろん籠手は消えも隠れもしない。
「ほ、包帯……包帯」
隠しを探った。だが探すものは見つからない。
「包帯? あ」
バジャサは首をかしげ、それからぽんと手を叩いた。
「そう言えば、包帯巻いてたな。あれって怪我じゃなかったんだ。そいつを隠してたのかい?」
「う」
気づかれた。当然でもあるだろう。
「隠したいなら包帯を巻くより、外していればいいのに」
もっともな指摘がきた。
「……外れないんだ」
渋々とオルフィは言った。
「呪い、みたいなもんに、かかって」
正確には違うらしいが、簡単に説明するにはこれがいい。
「へえっ」
「悪いんだけどさ、どっかで包帯、手に入れらんないかな? こんな籠手、目立つだろ」
「確かにね」
バジャサはにやりとした。
「よし、兄さん。うちにきなよ。包帯くらいなら治療箱に入ってるはずだし、ひとりじゃ巧く巻けもしないだろ?」
「いいのか?」
「面白そうな話だもんな。代わりに事情を聞かせてくれればいいよ」
事情。オルフィは顔をしかめた。
「あんまり話せないんだ」
そう言えばバジャサはきょとんとし、それから声を上げて笑った。
「な、何だよ」
「正直な兄さんだな! こういうときは適当に話を合わせておいて、望みのもんを手に入れてから『話せない』って言えばいいのにさ!」
「そんなの、詐欺師じゃんかよ」
本当はそんなことを思いつきもしなかったのだが、オルフィは、そういうことはよくないと思ったかのように言った。もっとも、考えて否定するより思いつきもしない方が――よくも悪くも――「善良」と言えたが。
「いいよ、話せるところだけでさ。二度も行き合ったのも何かの縁ってね」
「そっか」
オルフィは頭をかいた。
「有難う。じゃあ頼むよ」