02 「彼」
戻らなければ。
「彼」は焦燥に駆られていた。
どうして自分があんな場所にいたのか、よく思い出せなかった。
ただ、だいたいのところは推測もつく。あの畔の村が「まだ」無事であることをこの目で確かめたかったのだ。
気づけば湖の畔に立っている自分がいた。
村は彼の記憶にあるまま、静かで平和そうだった。
どんな戦士の気配も――もちろん、村の守り人は除いて――ないことを確認すると、彼は村に足を踏み入れることなく、戻るべき西を向いた。
戻らなければ。
いまはまだ何ごともなさそうであっても、いつ何時、あの痴れ者の王が命令を下すか判らない。
成すべきことはひとつ。心は決まっていた。
記憶が茫洋としていることは気にかかった。だが疲れているのだろうとだけ思った。
たとえどんなに疲れていたからと言って、どうやってあの村まで行ったか覚えていないというのは妙な話だったが、彼は突き詰めなかった。
いまの自分の状態が、普通と違うことは判っていたからだ。
望めば、叶うことがある。いまの自分には。
それに相応しいだけの代償を支払うと、約束をしたから。
(早く)
(一刻も早く戻りたい)
(――ナイリアールへ)
足がほしい。彼は願った。すると、草むらの向こうから影が現れた。
「……〈カリオール〉号?」
姿を見せたのは一頭の馬だった。それは彼の愛馬に似ていた。だがそんなはずはない。〈カリオール〉号はつい先日、病に倒れて世を去った。
「ブルル……」
野生とは思えない人懐っこさで、馬は彼に近づいてきた。いや、野生でないことは見れば判った。鞍もはみも手綱も、馬に装着されていた。
「迷い馬か?」
いささか考えづらいが、どこかの厩舎から逃げ出したとか、乗り手とはぐれたとか、そうしたことだろうかと思った。
それとも。
「贈り物だよ」
声が言った。彼はぴくりとした。
「急ぐんだろう? その馬を使うといい。なぁに、心配しなくてもそれはただの馬だ。獄界の乗り物なんかじゃないよ」
「ニイロドスか」
彼は振り返りもせずにその名を呼んだ。
「やあ」
にっこりと悪魔は挨拶をした。その格好には特に派手なところはなく、一見したところではごく普通の旅人のようだった。
「路銀や携帯食料も積んであるから、ナイリアールまで不自由はしないはずだ。何しろ君は」
くすりとニイロドスは笑った。
「着の身着のままで飛び出したんだから」
「飛び出した」
彼は繰り返した。よく覚えていない。だがそのことをこの悪魔に告げるのは何だか癪だった。もとより、相手はみんな知っているのではという思いも存在した。
「判った。もらい受ける」
うなずいて彼は手綱に手を伸ばし、あぶみに足をかけてひらりと馬にまたがった。
「――剣は」
右腰に重さが足りないことに気づいて彼は尋ねた。
「ああ、ごめん。うっかりしていた」
悪魔は口の端を上げて手を振った。
「まさか騎士たる君が剣も持たずに飛び出すなんて思ってもみなくてね」
「つまり、調達する気はないということだな」
彼は結論を出した。
「だが」
少し眉をひそめて彼は自らの――左腕を見た。
「この、籠手は何だ。何故、隠している」
包帯を巻かれていても、その下に籠手を装着している感触はある。
「僕に訊かれても困るな。隠すことを決めたのは君なんだし」
「俺が?」
「目立つ、という判断なんじゃないかなとは思うよ。見てみれば判るだろうけれど」
ほのめかされて少し迷ったが、彼は包帯を解いてみることにした。すると現れる、青く美しい籠手。彼は息を呑んだ。
「ずいぶんと立派なものだ。どうして俺がこんなものを」
「ふふ、どうしてだろうね?」
「これもお前の『贈り物』か」
「いいや、それは違う」
ニイロドスは首を振った。
「少し記憶が混乱しているみたいだね。でも大丈夫、ナイリアールに着く頃にはみんな思い出すよ」
それが事実かどうか、「彼」には判らない。判ったのは、悪魔が懇切丁寧に説明する気などないのだということだった。
「ナイリアールはどうだ」
次に彼はそこを問うた。
「君を待っている騎士がいるよ。君がどうしているのか気にしていて、早く言葉を交わしたいみたいだ」
「……そうか」
そうとだけ答えた。その「騎士」が誰であるのか、彼には明白だった。
実際にはニイロドスの言う騎士と彼の思う騎士は全くの別人であったが、それを彼は知らず、ニイロドスも語らなかった。
「国王は」
「体調が思わしくないみたいだね」
素知らぬ顔で悪魔は答えた。
「何?」
「君の呪詛が効いたんじゃないのかな?」
「はっ。俺の呪いにそのような力があるなら、お前の手など借りずともよい」
「あはは、全くだね」
ニイロドスは陽気に笑った。
「主たる国王を呪う騎士か。いいね。僕は君が好きだよ」
悪魔は馬に乗った騎士に近寄ると、金色の瞳でそれを見上げた。
「――ヴィレドーン」
彼は馬上からそれを見下ろし、唇を結んだ。
「はあっ」
そして何も言葉を返さぬまま、気合いを発すると馬の手綱を取ってそれを走らせた。
道上でそれを見送りながら、ニイロドスは笑みを浮かべた。
「おかえり。漆黒のヴィレドーン」
時が――。
それから三十年もの時間が流れていることなど知らぬまま、それとも思い出せぬまま、〈漆黒の騎士〉と呼ばれた男は馬を駆った。
悪魔の目論見については懸念もあったが、あれの目当てについては判っている。少なくともそう思っていた。
あれは何も、ナイリアンを蹂躙することなど望んではいない。目をつけた人の子の破滅を楽しみたいだけ。
初めてニイロドスが彼の前に現れたときのことをはっきりと覚えている。
いまではああして見目のよい青年の姿を取るが、実際の姿は異なる。いや、「実際の姿」などあるのかどうか。様々な外見を取ることができるように、闇そのもののような黒い両翼を背に、ねじれた角を生やして鋭い牙を持つ、絵に描かれるような「悪魔」の姿もまた、見せかけにすぎないのかもしれない。
だがどうであれ、あるときニイロドスはまるで悪夢の顕現のように彼の前に現れた。彼の抱える闇を知り、それを払う方法と力を差し出した。
そして彼はその手を取った。
後悔はない。
たとえ友に蔑まれ、反逆者と呼ばれることになろうとも。