01 本当は
沈黙はずいぶんと長かった。
それに耐え切れないようにもぞもぞと身を動かしていたのはシレキだけで、エクールの長老と少年魔術師カナトは、まるで彫像になってしまったかのようにぴくりとも動かなかった。
もっともその彫像たちは、ただそこに座っているのではなく、互いに――主にカナトの方が――じっと見つめ続けることで相手の考えを読むことができないかとでも思っているかのようだった。
「……オルフィに、いったい何があったのか」
ようやくカナトが口を開いたのは、長老の前に座ってから三分は経ったあとのことだった。
「ご説明下さい」
知っていることはあるか、などと尋ねる段階を飛ばして、カナトは言った。オルフィの話によれば、畔の村の長老が何かしら知っていることは間違いなかったからだ。
「封じが、緩んだ」
長老は端的に答えた。
「刺激が与えられた」
「封じ」
カナトは繰り返した。
「それは彼の左腕にあるもののことですか」
「いいや」
長老は否定した。
「彼そのものの封じ」
「オルフィの……封じ?」
繰り返してカナトは眉をひそめた。
「彼に特殊な力でも封じられていたと言うのですか? しかし僕は一切、そんなものを感じませんでした。少なくとも魔力が関わっていることはないはずですけれど」
「秘められている。深く深く」
静かな声で言って、長老はじっと少年を見た。
「名は、何と」
突然問われてカナトは目をしばたたいた。
「すみませんでした、名乗りもせずに。僕はカナトと言います。こちらはシレキさんです」
そこで初めて彼は普通の――いつもの、礼儀正しい――少年のようになって名を告げ、シレキも紹介した。シレキはただ頭を下げ、口を挟むことを避けていた。
「カナト」
ゆっくりと長老は、その名の響きを確かめるかのように呼んだ。
「はい。僕らは南西部からオルフィと旅をしてきました。ここを訪れたのは初めてで」
「彼もそう言った」
「え?」
「施されているのが同じ封じであるのか、儂にははっきりとは視えない。だが、こうしてあの者とともに再びここを訪れた、これもまた在るべき理であろうな」
「あ……あの」
こほん、とカナトは咳払いをした。
「失礼ですが、長老はオルフィに対してと同様、僕のことも誰かと勘違いなさっているみたいです」
「再び訪れた」と言われているのが自分のことらしいと気づいてカナトは言った。
「いいや」
長老はまた言った。
「彼同様、記憶がないことは承知している。いまはカナト殿と仰るか」
「あの」
少年は困惑した。
「ただの『カナト』で充分です」
「カナト殿」
かまわず長老は呼びかけた。
「儂から話せることは、何もない。約束したのだ。全て託すと。在るべきときに在るべきものが在るべき場所に在るように」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
カナトですら、長老の言うことについていけなかった。
「何のことですか」
少年は問うた。
「あなたは、いったい」
口にしながら彼は、これがとても重要な問いかけであると感じていた。
約束の内容ではない。託したと言う「全て」についてでもない。
「――誰に託したと言うんです」
再び沈黙が長老の部屋を支配した。カナトは待った。シレキも待った。年嵩の男は少年に話を任せることに決めて余計な言葉を発しなかったが、そんな決断をしていなかったとしても、ここは黙って待つべきときであると気づいただろう。
彼らは待った。
エクールの長老は目を閉じ、まるで祈るかのようだった。
「それは」
ゆっくりと老婆は言った。
「ラバンネル」
「大導師……ラバンネル」
カナトは自分の声がかすれるのを感じた。
「オルフィが、言っていました。あなたはラバンネルやアバスターのことを知っていると。もちろん『伝説』としてという意味ではない。面識があるようですが、それだけでもない。約束……」
少年は額に手を当てた。
「何かとても重要な約束が、行われた。それはオルフィに、関わること……?」
「ちょっと、いいか」
そこでシレキは片手を上げ、発言の許可を求めるようにした。
「俺は奇妙に思っていた」
「何をです?」
カナトは当然の問いを発した。
「オルフィの決断についてだ」
「え?」
「黒騎士に何かほのめかされたからと言って、エクール湖に行ってみようと決めるまでが早すぎたように思う。ほかに行く当てもなければ手がかりもなかったし、そうしたいならかまわないだろうと思ったが、正直、どうしてそう決めたものかと」
「ですから……当ても、手がかりも」
男が何を言い出したものかと、カナトは首をかしげた。
「黒騎士の言ったことだぞ。そう、俺は奇妙に思った。お前さんが疑問を挟まなかったことにもだ」
「僕がですか?」
次には目をしばたたく。
「お前さんはオルフィの考えを重視してる。それは判ってるが、意見があれば告げた上で、オルフィの判断を待つだろう。どうして黒騎士のほのめかしに乗った?」
「どうしてと言われましても」
カナトは目をぱちくりとさせた。
「黒騎士がオルフィを誰かと勘違いしているのなら、その人物を探すことがこの先の役に立つと……」
「その行き先がここじゃなくても、お前はそう思ったのか?」
シレキは少年の言葉を遮って尋ねた。
「え……?」
「俺は何も知らん。俺にはお前ほどの魔力もないし、あるのは仕事だけだ。だがその仕事が、俺に告げるのさ。どうにも何かおかしいぞとね」
「いったい何を」
何だかシレキが奇妙なことを言っている、と少年は感じた。だがその疑念が形になる前に男は続ける。
「ああ、いや、お前に企みがあると疑っている訳じゃない。お前がオルフィに悪いようにするとは思わんし、湖を訪れてみるのがいいと心から賛同したんだろう。だが何故だ?」
シレキは畳みかけ、カナトは困惑した。
「僕は……」
「長老は『封じ』と仰った。俺にも感じられん。だがそうしたものがあるんだろうと思う。そうであれば納得する。お前は――お前とオルフィは、この畔の村と何か関わりがあるんだ。覚えていようといまいとな」
「封じ……られている? 僕や、オルフィの記憶が? 僕が以前からオルフィを知っていたとでも? だから……彼についてきたのだと?」
「判らん」
シレキはちらりと長老を見た。長老は何も言わず、何も示さず、じっと座っていた。
「ただ、『可能性はある』。違うか?」
「それは、どんな小さな可能性でもあるとは言いますが、でも」
顔をしかめてカナトは呟くように言った。
「僕には、記憶の欠落なんてありません。あまりにも幼い頃のことは覚えていませんが、それは別として」
知らずカナトはオルフィと同じようなことを口にしていた。
「お前はオルフィが籠手を持つのを運命であるように言い、認めないあいつに嘆息していたな。だがお前自身はどうなんだ? こうしてオルフィについてきている、その理由は」
わずかに間を置いて、シレキは続けた。
「本当は、何なんだ?」
三度目の沈黙は、前の二度よりも重いものだった。
「シレキ……さん」
「何だ」
「あなたは……あなたも、どうなんですか」
「うん?」
「オルフィに運命を見たと言った。同時に、ラバンネルを探して魔力を取り戻すとも。猫を探すというようなことも口にしていましたが……」
「麗しのマズリール。言っておくが、本気だぞ。俺は彼女を見つけ出す」
シレキは鼻を鳴らした。
「だが俺のことはいいんだ。この際、ラバンネル術師のこともいい。いまはオルフィとお前のことだ」
「……長老は」
少年はのろのろと視線を老婆に戻した。
「ご存知なのでしょう。お話ししてはいただけないのですか」
「――彼に託した」
長老はまた言った。
「ラバンネルに」
「大導師、ラバンネル」
カナトもまた繰り返した。
「やはり……この旅路はラバンネルを探すためのものなのでしょうか。籠手を外してもらうためだけではなく、ほかの、もしかしたらもっと重要な何かを……知るために」
声は囁きのようになり、ほとんど独り言同然となった。
「……カナト」
シレキは言葉を探し、何か言おうとした。
だが。
「失礼いたします」
鋭い声と扉の開く音が彼らの言葉をとめ、視線を一斉に入り口へと向けた。
「長老、語らいの最中に大変失礼を」
やってきたのはソシュランだった。
「……去ったか」
長老は短く言った。ソシュランはこくりとうなずいた。
「去った?」
カナトは聞き返し、それからはっとした。
「待って下さい! 去ったと言うのはまさか」
少年は立ち上がった。
「オルフィですか!?」
「そうだ」
カナトの方を向いて村の戦士はうなずいた。
「とめる薬師殿を突き飛ばして、着の身着のまま、出て行った」
「突き……」
「何てこった」
カナトは絶句し、シレキはうなった。
「俺がついていればよかった、と言っても一緒に突き飛ばされただけかもしれんな」
「お、追いかけましょう! オルフィは、どっちへ行ったんです!?」
「西だ。少なくともラシアッドには向かっていない」
「まあ待て、カナト。落ち着け。まだここの話が終わってな」
「急いで追わないと駄目です!」
カナトが――この礼儀正しい少年が――挨拶ひとつせずに走り出したのを見てシレキは目をしばたたき、代わりに挨拶と非礼への詫びを入れると慌ててカナトに続いた。