12 悪魔め
チン、と杯の合わさる音がした。
「英雄の帰還に」
「よしてくれ」
騎士は口の端を上げた。
「俺ならこう言おう。『茶番に乾杯』と」
「言ってくれるものだ」
魔術師は騎士の言葉に笑った。
「もっともお前自身、なかなかの演技だったな。ジョリスの死を初めて知ったような顔は、上出来だった」
「ふん」
騎士は鼻を鳴らした。
「では杯を掲げる対象はこうしよう。――新たなる〈白光の騎士〉に」
次に魔術師はそう言った。
「まさか殿下があのようなことを言い出すとはな」
ふっとハサレック・ディアは笑った。
「正直に言えば私も予想外だった。だがちょうどいいだろう」
リヤン・コルシェントは肩をすくめた。
「劇的な帰還、新たな英雄の誕生。予定していたこれだけでも充分ではあったが、白光位まで加われば」
「いささか過剰ではないか」
ハサレックは言ったが、忌避するという様子はなかった。その口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。
「この俺が〈白光の騎士〉か! 大した冗談だ」
「冗談でも夢でもない、ハサレック。あのままであれば貴殿がどれだけ望んでも手に入らなかったものが、いまもうその目前にあるのだ」
「術師殿こそ」
騎士はにやりとした。
「大層な役者だ。俺では敵わない」
「何の。キンロップに魔力の流れを見て取ることなどできぬ故、簡単なことだった。少々疑ってはいたようだが、何の根拠もなくただ負け惜しみから口にしただけのこと」
「だが油断は召されるな」
ハサレックは赤い液体の入った杯を揺らした。
「失態に消沈して大人しくしているような男でもあるまい」
「手は打つ」
コルシェントは杯に口を付けた。
「〈ドミナエ会〉にもっと暴れてもらおう」
「術師が『責任』を取る羽目になるのでは?」
面白そうにハサレックは尋ねた。
「何の、問題なのはキンロップだけだ。あやつを自由にさせなければそれでいい。幸いと言うのか」
肩をすくめて魔術師は続ける。
「直前に祭司長が王子と持った面談も、あろうことか説教じみた内容だったようだ。レヴラールはキンロップに対して『小うるさい』という印象を強めている」
「王子も馬鹿ではない。追従ばかり口にしても信頼されなかろうぞ」
「判っている。ただ諫言を聞けるほど度量も広くはない」
「そうかもしれんな。……ジョリスの言葉だけは、聞いたようだが」
「しかしそのジョリスもいない」
酒を飲み干してコルシェントは薄く笑った。
「そう言えば訊いていなかったな」
薄笑いを浮かべたまま、魔術師はゆっくりと続ける。
「どうだった? 親友を殺した感触は。――黒騎士よ」
「黒騎士か」
ハサレックは口の端を引っ張った。
「どうしてそのような異名がついたのやら」
「子供殺しの騎士とはな。民草の感性は、なかなかに傑作だ」
「何も面白くなどない」
黒衣を脱いだ男は杯を持たない方の手を振った。
「快くはなかった。だが必要であるから行っただけだ」
「無論、判っているとも。親愛なる騎士殿」
くすりと魔術師は笑った。
「この日が迎えられたのは貴殿のおかげだ。これからも、手伝いを頼みたい」
「〈白光の騎士〉に?」
唇を歪めてハサレックは問うた。
「それとも、黒騎士に?」
「もうひとりの黒騎士か」
コルシェントはふっと笑った。
「巧いことを言ったものだ。もうひとりいるならば、子供殺しが続いてもおかしくない。そうあれば〈湖の民〉も神子を捜索せざるを得なくなろう。そうでなければもう少し脅してやってもよい」
満足げにコルシェントは杯を揺らした。
「ふふ……〈ドミナエ会〉。ちょうどよい集団があったものだ。ああした連中は、目標を与えてやるとよく動く。もっとも、いちばん働いたのは貴殿であったということになろうがな」
「俺は〈ドミナエ会〉などどうでもいい」
ハサレックは鼻を鳴らした。
「我が手にある力を使いたいだけだ」
「判っているとも」
コルシェントはまた言った。
「お前にとって邪魔者であったジョリス・オードナーはもういない。私にとって面倒であったキンロップも、王子の信頼をなくしたも同然。レスダール陛下に亡くなっていただく時機は見計らうが」
「黒騎士」の一撃で死なせてしまってもよかった。もうレスダールの役割は終わったというのが彼の考えだからだ。だが王の死は国中に、殊に城内に大きな混乱をもたらす。レヴラールの興を買おうとする人物も格段に増えるだろう。それらを上手にさばくには、もう少しコルシェント自身が城内と、そしてレヴラールを掌握してからの方が無難だ。
そのため、レスダール王は「生かされた」。都合のいいときに「死んでもらう」まで。
「もう間もなく、やってくる。リヤン・コルシェントと新王レヴラールの時代がな」
魔術師は杯を掲げた。
「ここまでくれば、もう急ぐ必要もない。むしろじっくり時間をかけてこそ」
「おや、忘れてしまっては困るな」
くすりと笑う声がした。コルシェントは片眉を上げ、ハサレックはぱっと左腰の剣に手をかけたが、すぐに離した。
「ニイロドスか」
「もちろん、僕だ」
ふたりの間の宙に現れた悪魔は灰色の髪をかき上げてにっと笑い、浮かんだままで胡座をかいた。
その「衣装」はオルフィを戸惑わせた芝居がかったものではなかったが、ひらひらとした薄もの一枚であり、もし女が身につけていたら男は目のやり場に困っただろう。
「アバスターの籠手。力を目覚めさせたあれを取り戻す。その約束を忘れてしまったかな?」
「覚えている」
騎士は呟いた。
「〈閃光〉アレスディア。ヴィレドーンの力を奪ったまま、アバスターがラバンネルに封じさせた籠手。……まだ目覚めていないようだが」
「ああ。君があの町で対峙したときのままさ」
「目覚める? 籠手がか?」
コルシェントが口を挟んだ。
「そのような話は、聞いていないようだが」
「英雄アバスターの籠手は、大導師ラバンネルの籠手だよ。魔術師である君なら、秘められた力があることくらいは判っているだろう? そうした話さ」
気軽に悪魔は言った。そうか、とコルシェントは呟いた。
「ハサレックも僕も『彼』を少しずつ刺激してきたけれど、反射的に出るものがあるだけ――いや」
悪魔はふふっと笑った。
「ファローについてだけは強く反応した。この辺りが君と似ているね、ハサレック。君もジョリスの話には」
「ジョリスの話はやめてもらおう」
ハサレックは遮った。
「どうして? 君たちの間に渦巻いたものはとても美しく、興味深かった。ああ、気の毒なジョリス・オードナー! 黒い剣士の正体が死んだはずの親友だと知れば、彼の妙技も振るわなくて当然だ」
「ふざけるな。俺はその隙を利用した訳じゃない」
ハサレックは立ち上がった。
「ジョリスよりも、俺の方が」
「〈白光の騎士〉に相応しい?」
くすくすとニイロドスは笑う。
「そうだね、ハサレック・ディア。ずっと長いこと、胸に秘めてきた暗い思い。白光と青銀、最上位と次点の間にあった差は、君が就任前に思っていた以上だった。誰もがジョリス様、ジョリス様、ジョリス様」
「黙れ」
「いいじゃないか。これからは君がその立場になるんだ。誰もが『ハサレック様』と君を称え、白光位にある騎士を崇拝する。せいぜい、ほかの騎士に裏切られないよう注意したまえよ」
「この――」
騎士は歯ぎしりをした。
「悪魔め」
「もちろんそうだ、と言っているじゃないか」
楽しげに悪魔は笑い続けた。