03 やっつけてくれるはず
はあ、と若者は御者台で息を吐いた。
心地のよい天気でも、彼の気分が高揚させないときはある。
「全くもう……リチェリンは何にも判っちゃいないんだからなあ」
いったいいつ誰が「ほしいものを買ってきてやるから金を寄越せ」などと言ったのか。彼は額をかいた。
オルフィはもちろん「髪留めでも何でも、首都で手に入るきれいなものをリチェリンに贈りたい」と言ったのだ。
だが伝わっていない。ちっとも。
(俺はリチェリンには、弟だもんなあ)
(それに、彼女は、神女になるんだし)
神女は過去こそ問われないものの、その身分を持てば清らかな暮らしを要求される。男とのつき合いなど、もってのほか。
報われないことが確定している恋である。
だが、惚れてしまっているものは仕方がない。
オルフィがこうして髪を伸ばしているのだって、リチェリンが昔、彼の髪をきれいだと言ったからなのだ。しかし言った本人はもう忘れているに違いない。
(もっと押せば通じるんだろうけど)
(……困らせるよな)
神女になるのだ。彼女は。
「ああっ、もうっ、ぐだぐだ考えるのはやめだ、やめ!」
オルフィは叫んだ。クートントがびくっとした。
「おっと、ごめんごめん。お前を怒ったんじゃないよ」
謝ってオルフィは手を伸ばし、驢馬を撫でた。
クートントはアイーグ村で畑を耕していた驢馬だったが、病気になってもう使えないと判断され、殺されるところだった。オルフィはきっと治せると信じてクートントを譲ってもらい、町の薬草師から効きそうな薬をありったけ手に入れて、驢馬を救ったのだ。
動物なりの感性で何か判るところがあるものか、クートントはオルフィにすぐ慣れて、言われるままに荷馬車を引いた。しかしオルフィだって大いにクートントに助けられている。お互い様だと思っていた。
もっともクートントの元の持ち主は、オルフィが彼女――雌だ――を救ったことを棚に上げ、安く譲ってやったのだから無料で荷運びをしろなどと言ってくる。アイーグ村の人々はいい人ばかりだが、あの親爺だけは気に入らない、とオルフィは常々思っていた。
「今日はもう、ずいぶん移動したよな。これだけ届けたらあとは帰ろうな、クートント」
人にするように動物に話しかけるのは、大きな街であれば奇妙に思われるかもしれなかったが、オルフィにとってはちっとも変なことではなかった。クートントは彼の大事な相棒だ。
「ああ、夕日だ」
北西に向かっていたオルフィの目に、真っ赤で大きな太陽が飛び込んできた。
「きれいだなあ」
森の向こうに沈んでいく夕日は壮大で美しく、ちっぽけな悩みごとなど忘れさせてくれそうだった。
「――うん。今日はいい日だった。明日も、きっといい日だ!」
悩ましいことなど何もなかったとばかりに、若者は元気を取り戻すと自分に向けて祝福の仕草をした。
「おー、お帰り、何でも屋」
「お疲れ様、オルフィ。ご飯はどうする?」
「定食ちょうだいっ」
馴染みの――アイーグ村唯一の――食事処〈緑の葡萄〉屋に顔を出すと、馴染みの顔が出迎える。若者は大きく片手を上げて注文をした。
「今日は何?」
「鶏と野菜の蒸し焼きよ」
「プルトンさんの麺麭は?」
「もちろんあるわ」
「何か汁物ほしいな」
「玉蜀黍のでいい?」
「それそれ、よろしくっ」
ずっと荷馬車に乗っているというのは楽なようでいて、実は体力を使うものだ。そうでなくとも健康的な若者なら、息を吸って吐いているだけでも腹を空かせる。オルフィは店の娘が皿を運んでくると待ちきれないように受け取って食べはじめた。
「うん、いつもながらここの飯は美味い美味い」
「お世辞言ったって負からないわよう」
「世辞じゃねえって。首都なんか、小綺麗な店もたくさんあるけどな、高いばっかでろくな飯を出さないんだから」
本当に、世辞ではなかった。オルフィはそんなに何度もナイリアールへ行った訳ではないが――滅多にないから、リチェリンにどうせなら何かないかと尋ねるのだ――訪れたときに入ってみた店はどこも「外れ」だった。おそらくナイリアールにも安くて美味い食事処があるのだろうが、少なくとも若者が経験した限りでは、そんなものは存在しなかった。
「仕方ないなー、大盛りにしてあげちゃうっ」
「やった」
狙った訳ではないものの、食べ盛りの若者としては単純に嬉しい。
そうしてオルフィが給仕娘や常連客といつものような世間話に興じていたときである。
不意に店の扉がばたんと開いた。
「ああ、何よ、スリードじゃないの。驚かせないで」
よく知る顔に娘は軽く抗議をした。
「出たぞ!」
だがスリードはそれに返事もせずに大声を出した。
「出たって」
「何が」
「お化けでも出たのか?」
オルフィを含む店の客たちが呆然と、または茶化して口々に言えば、スリードはちちちと指を振った。
「あれだよ」
「だから」
「あれって言うのは」
「――子供殺しの黒騎士が、ついにこの付近にも出たんだ!」
効果を狙うように男は両手を拡げて叫んだ。それはまさしく「お化けが出たぞ」と子供を脅すような仕草だった。
「はあ? 何だって?」
「あんた、いい加減なことを言うとただじゃおかないよ」
だが男が望んだであろうような反応は得られず、彼は不謹慎な冗談を言ったように思われた。
「本当だよ、俺ぁルタイの詰め所で聞いてきたんだ」
顔をしかめてスリードは言った。ルタイの詰め所というのは、このアイーグ村から歩いても半刻ほどのところにあるごく小さな砦だ。十人かそこらだが街道警備の兵士たちが詰めており、そのおかげでこの付近は治安もよかった。
「チェイデ村の兄妹が殺されて見つかったそうだ。気の毒に、兄の方は来旬、成人を迎えるところだったとか」
「まさか」
「本当に」
ほのぼのとしていた食事処の空気が、一気に冷たくなったかのようだった。
(黒騎士)
(ただの怪談話じゃなかったのか)
黒騎士の話はオルフィも耳にしたことがあった。黒い鎧の剣士が深夜に音もなくやってきて成人前の少年少女を拉致し、斬り殺して街道に捨てるのだと、そんな話だ。
狙われるのは十五歳になるならずの子と聞いて、とりあえず自分とリチェリンは大丈夫そうだなと思った。自分たちだけ安全ならよいと思った訳ではなかったが、噂話はどうにも怪談めいていて、当の子供たちやその親以外はあまり案じていなかったところがある。
「でもそんな不埒者は、騎士様がやっつけてくれるはずだろう」
誰かが言えば、そうだそうだと声が上がった。
「ナイリアンの騎士たちにかかれば、そんな悪党はすぐに退治されちまうさ」
「……でも」
店の娘が盆を抱えて呟いた。
「初めて噂を聞いたのって、もうかなり前よ。騎士様たちでも手に負えないような、悪い奴なんじゃ」
「そんなことないさ」
「いまのナイリアンには〈白光の騎士〉様だっていらっしゃるんだ」
「そうだ、ジョリス様なら、不吉な黒騎士なんてまっぷたつにして下さる」
〈白光の騎士〉ジョリス・オードナーの名は、南西部の田舎にまで轟き渡っていた。彼らは誰も――ナイリアールを訪れたことのあるオルフィも――ジョリスを実際に見たことすらなかったが、白光位の騎士ともなればそれはもう強くて、賢くて、容姿も端麗で、素晴らしいお方であるはずだと無邪気に信じていた。
彼は英雄アバスターと同じように、人々の純粋な尊敬を得ていたのだ。
オルフィもまた、見たこともないジョリスという騎士に強い尊敬と憧れの念を抱いていた。
「そうだよ。ジョリス様が退治に乗り出したら、あっという間さ」
それは信仰のようでさえあったかもしれない。ジョリス・オードナーとてひとりの人間であるという事実を無視して、彼らは騎士が万能であるかのように語った。