04 揺らいでいる
翌朝は、雲ひとつない好天だった。
春先の爽やかな風が湖畔を駆け抜ける。これが数月前だったら、オルフィは満面の笑みを浮かべてクートントを連れ、仕事に励んだことだろう。
(数月)
(何だか何年も経ったみたいだ)
オルフィは青空を見上げて目を細めた。
「うう、眩しい」
「まるで二日酔いの人みたいですよ」
くすっと少年は笑った。
「昨日は調子が悪かったらしいですけど、大丈夫ですか?」
「それは俺が尋ねるべきことなんだけどな」
はは、とオルフィはいささか引きつった笑いを浮かべた。
「大丈夫か?」
「僕は平気です」
照れたような笑みを浮かべてカナトは答えた。
「すみませんでした。ご迷惑をかけて」
「疲れてたんだろ。気づいてやれなくて悪かった」
「いえ、僕自身、倒れるほど疲れていたなんて気づいていませんでした」
笑って少年は言った。
「でも先生の薬はすごいですね。今日はとても調子がいいです」
「そっか。そりゃよかった」
「お前ら……」
そこでシレキがうなるような声を出した。
「本当に大丈夫なのか?」
オルフィが驚いて振り返ったのは、男の声に奇妙な響きを感じ取ったせいだ。
いつものように茶化すのでもない。かと言って、心配しているというのとも――違うような。
「おっさん?」
シレキは両腕を組み、険しい顔つきで若者たちを見ていた。
「何だよ、怖い顔して」
「顔は生まれつきだ」
「『大丈夫』であることに何か問題があるんですか?」
首をかしげてカナトが尋ねる。
「その通り」
こくりとシレキはうなずいた。
「はあ?」
オルフィは口を開ける。
「何言ってんだよ」
「おかしいと思わないのか?」
まるで睨みつけるような目線で、男は若者たちを見た。
「お前と。お前と。疲労の自覚もなかった若い連中が、揃ってぶっ倒れた」
「揃って倒れた訳じゃないだろ。って言うか、俺は倒れてないぞ」
「似たようなもんだったろうが」
ふんとシレキは鼻を鳴らす。ふたりが体調をおかしくした数刻の差など誤差であり、オルフィは気を失ってこそいなかったがその寸前だったと、シレキは二点まとめて「似たようなもの」とした。
「旅程は強行軍にはほど遠かっただろう。オルフィは、精神的にきついもんがあったかもしれないが……」
黒騎士のこと。ジョリスのこと。シレキは遠回しに言った。
「だ、だからってぶっ倒れたりしないさ」
「倒れたじゃないか」
「倒れてないって」
「似たようなもんだ」
シレキはまた言った。
「それが、何なんです?」
きょとんとカナト。
「オルフィと僕が同時期に調子をおかしくしたとして……伝染するような病を疑っているんですか?」
「正直、ちょっとは思った。だが何つうか、もうちょっと、あれだ」
ううん、と男はうなる。
「魔術的な話じゃないかと」
「魔術的」
興味ありげにカナトは繰り返した。
「どういうことです?」
「この、畔の村だよ」
しかめ面でシレキは辺りを指し示した。
「カナトが気づかないことを俺が気づくとは思えんが、この村にはなーんか妙な雰囲気がないか?」
「……そうですね、確かにあります」
少年はうなずき、オルフィは驚いた。
「妙だって? 何が」
「話に聞く湖神信仰が関係しているのでしょうか。独特の空気をまとっています。でも悪いものとは思えません。むしろ僕は、気分がいいです」
「昨日は倒れたのに?」
「ええ」
カナトはまたうなずいた。
「疲れていた自覚は、確かになかった。でも言うなれば、それをさっさと表に出して癒してくれたような、そんな気持ちがあります」
「癒してくれたって」
オルフィは胡乱そうにカナトを見た。
「誰が?」
「湖神、でしょうか」
さらりと少年魔術師は答えた。
「はあ?」
「もちろん、僕だってこの村は初めてです。湖神を信仰なんてしていない。でもこの考えは不思議と腑に落ちるんです」
「……俺も?」
オルフィは尋ねた。
「俺が倒れて、は、ないけど、俺が昨夜、何か変だったのも湖神が『疲れを表に出して癒してくれた』のか?」
「ううん、正直、オルフィのことまでは判りませんけれど」
カナトもオルフィを見た。
「どうですか?」
「判らないよ」
「湖神についてじゃありません。体調は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「何だよ、カナトまで」
シレキと同じ疑問にオルフィは笑った。
「平気だって言って」
「そうは思えません」
彼の言葉を遮って少年は言った。きつい声音だった。
「な、何だよ」
オルフィは面食らった。
「……オルフィが大丈夫だと言うなら黙っていようかとも思ったんですけれど。さっきからずっと、その、何て言うか」
少年は言葉を探すように少し黙り、それから顔を上げた。
「揺らいで、います」
「揺らぐ?」
「はい。さっき僕が二日酔いのようだと言ったのは、その連想もありました」
「ふらついたりはしてなかったと思うけど」
実際、オルフィの調子は何も悪くなかった。
(確かに昨夜はおかしかったけどな)
(長老の家から先生の家までの道が思い出せないなんて)
実に簡単な道だったことは、朝の光の下ですぐに思い出せた。
(――いったい俺は何で、あんなところでうずくまってたんだろう?)
覚えていなかった。彼は。
何も。
「身体のことじゃありません」
カナトは首を振った。
「ここです」
と、少年は自分の胸に手を当てた。
「シレキさん、気づきませんか」
「何を」
「オルフィの波動が、揺らいでいるんです」
「は?」
ぽかんと聞き返したのは当人で、シレキは目を細め、カナトの言う何かを見て取ろうとしていた。
「……いや、俺には判らんな」
魔力を持つ男はしかし首を横に振った。
「こういうのはあんまりないことなんですが、心にとても気にかかることがあったり、酷く迷っていたりすると、まるで存在を揺るがせるみたいに波動がふらつきます」
「……ええと?」
「オルフィ。長老から何を聞いたんですか?」
真剣にカナトは尋ねた。