02 俺が知るのは
獄界。
それは忌まわしき世界。
コズディム神が支配する「冥界」という死の世界に人々は畏怖を抱くが、そこは不吉な場所ではない。死した後は精霊ラファランに導かれて大河ラ・ムールに浸かり、主神コズディムに裁かれて次の世に送り出される。それが人の子の定めであり、正しき流れだ。
だが、その聖なる循環が乱れることがある。
堕落し、穢れた魂は、ラファランに導かれることがない。それは地上をさまよい、「闇のラファラン」と仮称される名なき黒精霊によって怖ろしき場所へ連れ去られることになる。
獄界。
主神ロギルファルドを筆頭に、死の女神ドリッド・ルー、鎌を持った死神マーギイド・ロード、黒き翼を持つ悪魔ゾッフルたちが支配する世界。
そこには永遠の責め苦だけがあると言う。
人々がその名を聞くことは少ない。口にすれば、いや、耳にしても災いを招くと言われる神々のことは剛胆な者でも話題にしたがらないし、たとえば言うことを聞かない子供たちへの脅しにも使われることはない。
神界神の加護など信じないと大口を叩く者であっても、獄界神を腐すことはない。
怖ろしく、忌まわしく、かすかな気配すら厭われる。
それが獄界と、その神々だ。
「なん、てこと言うんだよ!」
ぞくりとする。きゅうっと身が縮まったように感じた。
「やめろよ、そんな名前を口にするのは。いくら出鱈目野郎でも、呪いがかかるぞ呪いが!」
獄界の主神の名。急いで彼は厄除けの印を切った。
「ほらっ、お前もやれよ!」
「まさか、オルフィ」
ニイロドスは目をしばたたき、それから大笑いした。
「僕を心配しているの?」
「そっ、そりゃあんたは相当、おかしいけどさ! 呪われちまえとは思わないし」
楽しげに相手が笑うばかりなので、オルフィは仕方なくもう一回厄除けの印を切って代行した。代行できるものかは判らないのだが、やらないよりはましだろうと思ったのだ。
「君が僕のことを覚えていないのは知っている。でも僕よりも思いやった方がいいと思える人物がいるよ」
「心配してる訳じゃないっ。ただ……え?」
オルフィは目をぱちくりとさせた。
「思いやった方がいい、人物?」
とっさに連想したのはカナトのことだった。だが言われているのはそのことではないようにも感じた。
「ファロー・サンディット」
神託のように、その名は発せられた。
「え……」
ばくんと心臓が跳ねる。
「ヴィレドーン」の名を聞いたときのように。
いや、それとも、違う。
「君はファローのことも覚えていないんだろう? ああ、気の毒なファロー! 親友たる君に背後から斬りかかられて命を落とした上、忘れられてしまうだなんて!」
「なに、なにを」
「だから言っているじゃないか、ヴィレドーン」
にやり――と悪魔の口の端は大きく上げられた。
ファロー。
三十年前に殺された〈白光の騎士〉。
オルフィの耳に、声が蘇った。
『――本当に』
『その命令に従うのか』
夢に見た影。姿はよく見えなかったが、〈白光の騎士〉だと感じたその姿。
問いかけに困惑し、答えを返せなかったあの剣士は、ジョリスではなく。
(ファロー・サンディット?)
(いや、まさか)
(だってどうして俺がそんな夢を見る。ジョリス様のことならともかく)
「ファロー……」
またも胸が音を立てた。だが先ほどとは違う。
締めつけられるように、痛くて。
(馬鹿な)
(そんな馬鹿な。俺は知らない、ファローなんて騎士)
(俺が知るのはジョリス様で……)
真白き鎧にマント。金糸で縫い込まれたナイリアンの紋章。金の髪に蒼玉の瞳。そう、彼が知る〈白光の騎士〉はほかでもない、ジョリス・オードナーただひとり――。
「え……」
ごく短い薄茶色の髪。榛色の瞳は射抜くように鋭い。だが笑みを浮かべると、ぐっと表情がやわらかくなる。
心のなかで彼を見つめ返したのは、ジョリスとは似ても似つかぬ男だった。
雰囲気は似ている。よく。誰もが栄誉を認め、誰もが敬意を表し、誰もが憧れるその地位にありながらも、決して驕ることなく、気高き魂と志を持つ者。
同じものを見つめ、同じものを求め、若くして散ったところまで。
「ち、違う」
知らない。彼は知らない。こんな男のことは。
「思い出してあげなよ。可哀相じゃない」
くすくすとニイロドスは楽しげだった。
「よく知っているだろう? ジョリスよりも。当然さ、君と彼は実に親しかったんだから。あのときまで」
「あの、とき」
「そうさ。君が僕の手を取ったとき。もっともファローの方は君に斬りつけられるまで君を信じていたろうね。いや、死ぬまで……死んでも、かな。こういうところ、人間は面白いね」
含み笑いをしながらニイロドスは言う。かんに障る笑い方も、いまは気にかけていられなかった。
(ファロー……?)
(知っている、はずがない――)
「ジョリス・オードナーとハサレック・ディアがナイリアンの双刃と言われたように、ファロー・サンディットとヴィレドーン・セスタスもナイリアンの双翼と言われたものだ。ああ、片割れを失って消沈とする彼らの姿は、何と美しかったことか!」
両手を天に差し上げ、悪魔の芝居は続いた。
「僕はね、オルフィ。早くあの美しい君に戻ってもらいたいんだ。いまの戸惑う君も可愛らしいけれど、僕はあの日の君が好きだ。孤高の狼が見せる悲哀と美。ああ――最高に」
ちろり、と赤い舌が唇を舐めた。
「――美味かった」
「う……」
怖ろしい。
この段になって、感じたのはそれだった。
呆気にとられるより、困惑するより。
「気味が悪い」という感じでもない。
それは人の子が持つ、根元的な怖れ。
(このままでいたら)
(喰われてしまう)
逃げなくては。そう思った。
だが動かない。足が。
さっき逃げようとしたときに、足をとめてはならなかったのだ。
しかしもう遅い。彼は捕まった。
「さあ、おいで」
「それ」が言う。
「このニイロドスと一緒に、あの素敵な日々を取り戻そう」