01 何だって叶えてあげられる
彼は口を開けた。
驚いたと言うのも相応しくない。呆れたと言うのがより近かったろうが、何より適切なのは「ぽかんとした」という表現だろう。
「……えっと?」
オルフィは黒髪をかいて聞き返した。
「どういう冗談?」
三十年前など、オルフィは影も形もない。彼がヴィレドーンで有り得るはずがなかった。
「ふふっ」
ニイロドスは笑った。
「本当だよ」
「阿呆らしい」
彼は唇を歪めた。
「俺は十八だぞ? どうやったら三十年前に反乱を起こせるんだよ」
「やり方はいろいろある。ただ君の場合、君自身がこの結果を最初から意図したり希望したりしたのではないっていうのが少々珍しいかな」
帽子の羽根をいじりながら青年――の姿をしたもの――は言った。
「また訳の判らないことを」
オルフィは顔をしかめる。
「判らないのは君が忘れてしまっているせいだ」
すっとニイロドスは片手を上げ何かを促すように手を差し伸べた。
「思い出してもいいんじゃないかな? そろそろ」
「忘れてることなんかないって言ってるだろ」
「そうかな? 子供の頃のことは覚えていないと言ったじゃないか」
「だからそんなのは当たり前だろうって」
「『当たり前』」
くすくすとニイロドスは笑う。
「では問おう。君のいちばん古い記憶は何?」
「ガキの……四つか五つか、それくらいの頃かな」
素直に彼は答えた。
「村で友だちと遊んでた頃のことさ」
「へえ? その友だちは、誰」
「それは覚えてないけど」
「へえ? おかしくない?」
「別におかしくないだろ。いつも遊ぶような顔ぶれと遊んでたってだけだ」
むすっとしながら彼は言った。
「そうだったら、きちんと覚えているはずじゃないかな? 名前だって言えるはずだ」
ニイロドスは小首をかしげた。
「言えるさ」
主張して彼は村の幼友だちを思い出した。主には「世話焼き母さん」ルシェドの子供たちだ。リチェリンが姉代わりとは言ったものの、彼らとだって兄弟のように育ったと言っていい。
「鬼ごっこをしたり、アバスターごっこをしたりして遊んだ。何てことない、いつも通りの日。そのとき誰と誰がいたなんて具体的には覚えてないけど、特別なことがあった訳じゃないから当たり前さ」
「当たり前」
ニイロドスはまた言った。
「当たり前だと思わされているだけだよ」
「……はあ?」
「君の記憶を厄介だと思った人物が、みんな封じ込めてしまったんだ」
両手を広げ、ニイロドスは芝居がかって言った。
「何を言ってるんだ」
(こいつは完全に、妄想狂だ)
そうとしか思えなかった。
(もういい加減、本当に、追い払うとかしないと)
(俺が逃げちゃえばいいのか?)
(でも、どこに)
薬師の家は右だか左だかも判らない。長老の家だって同じだ。判ったところでそちらにはあまり戻りたくないが。
(ええい、どこでもいい! こいつから離れよう!)
決めるとオルフィは、じりじりと後退した。
「あれ?」
ニイロドスは目をぱちぱちとさせる。
「逃げるのかい。――ヴィレドーン」
「違うッ」
去ると決めたのならもう返事をしなければいいのだが、どうにも素直にオルフィは足をとめ、言葉を返してしまう。
「俺はオルフィだ。あんたも何度もそう言ったじゃないか」
「昔を思い出せないいまは、お望みならオルフィと呼び続けてもいいよ。でも名前を変えたくらいで過去が消えると思ってもらっちゃ困るな」
ニイロドスは逃げ出しかけていたオルフィに近寄った。
いや、そうではない。
一瞬でその距離をなくし、彼に触れんばかりの位置に現れた。
「う、うわっ」
オルフィは飛びのいた。
「やっぱり、お前、魔術師……」
「説明のつかない力はみんな魔術かい? まあ、昔の君もそう思っていたことがあったよね。でも本当のことを知ってからは、そんな馬鹿なことは口走らなくなったけれど」
「本当のこと?」
彼は顔をしかめた。
「お前の言葉の、いったいどこに『本当のこと』なんかがあるって言うんだ」
「ふ……ふふふ」
ニイロドスは笑った。可笑しそうに。
「あははは! 懐かしいね、君は前にも、そう言った!」
「い、言ってない」
「言ったとも、愛おしいヴィレドーン。その言葉に対して、僕はこう返したね。全ては君次第だと」
笑いをこらえるようにしながらニイロドスは続ける。
「『本当』って何だろう? 事実を述べること? 事実って? 起きた出来事? 起きなければそれは事実じゃない?」
「な、何を」
「信じれば、叶う。但し、疑えば、失う。全てを。君は僕を信じて力を得た。でも最後には疑って、そう、約束通り全てをなくしたんだ」
再び、ニイロドスの手がオルフィに伸びる。オルフィは逃げようとしたが――足が凍りついたように動かなかった。
「ねえ、ヴィレドーン。オルフィでもいい」
ニイロドスは囁いた。
「運命は変わらない。そんなふうに聞いたことがあるだろうね? 君の『友だち』の魔術師辺り、したり顔で説明するんじゃないかい」
オルフィは答えなかった。
「運命で全て定まっている」というのは彼には少々納得のいかない、どちらかと言えば気に入らない考え方だ。だがこの場でそう口にすれば相手の論調に乗ることになりそうに感じた。それはもっと気に入らない。
「でも変えることのできる力がある」
かまわず、ニイロドスは続ける。
「暗く重いだけの明日なんてご免だろう? 幸運と幸福を引き寄せて手放さずに済んだら、どうかな?」
「そんなこと、できるもんか」
彼は言った。もしそんなことできたならそれは素晴らしいことかもしれない。だが現実に、できるはずがないと。
「無理じゃない。可能だとも」
両手を大きく拡げてニイロドスは言った。
「君が望むなら、何だって叶えてあげられる! 僕らは祈らなきゃ、いや、どれだけ祈って供物を捧げてもろくに話すら聞かないような、ケチ臭い神界神なんかとは違うんだ」
「……僕ら?」
どきり、とした。
怖ろしいことを耳にしているような。
いや、耳にしようと、しているような。
「ねえオルフィ」
何度も呼びかけたようにニイロドスは若者をそう呼び、何度も聞かせてきたようにくすくす笑いを洩らした。
「僕なら君を助けてあげられるよ?――獄界とその主神ロギルファルドの名において、ね」