10 常識的なところなんか
さっぱり、判らない。
そうとしか言えなかった。
(何かものすごく助かる情報が簡単にもらえると思ってた訳でもないけど)
(……ちょっとは思ってた、かな)
矛盾することを考え、オルフィは息を吐いた。
長老の家を出ると、辺りはもうすっかり暗くなっている。畔の村には街灯のようなものもなく、何軒かの家が外に角灯を出している程度だ。月明かりを頼りに、オルフィは薬師の家へ戻ろうとしていた。
ソシュランに連れられて歩いたのはそう長い距離ではなかった。狭い村であるし、慣れない道でも大丈夫だろうとたかをくくったオルフィだったが、なかなかどうして、戻るのは容易でなかった。
(あれ、ここじゃないな)
似た家を見つけたが、入り口に花壇がない。薬師の家ではないと判った。
(……ええと?)
オルフィはきょろきょろと辺りを見回した。
(しまったなあ、判らなくなったぞ)
もう一度長老の家に戻ってみようかとも思った。道に迷ったときは判るところまで引き返すというのが定石だからだ。だが気分的に、長老に近寄りたくはなかった。
(おかしなことばかり言うんだもんな)
オルフィを誰かだと取り違えているようなのに、オルフィとも呼んだ。全くもって意味が判らない。
(まさか俺に、双子の兄弟とかいないよな)
そんなことも少し考えてみたが、有り得ないと判断した。父が知らないはずもない。
(あの婆ちゃん、やっぱりちょっと、呆けちゃってんじゃないかなあ)
(偉い人だからみんな言い出せないとか)
勝手なことを思いながらオルフィは口の端を上げた。
(ううん、どこかなあ)
(まあ、しらみつぶしに歩けば、たぶん見つかるさ)
楽天的に考えて彼は更けゆく夜の村を歩いていった。
「やあ、迷子の仔兎クン」
「ふえっ」
そのときである。背後、それもかなり近くでかけられた声にオルフィは飛び上がった。
「どこに行こうとしてるところかな?」
「えっと薬師の……って、おま」
素直に答えかけて、オルフィは口をあんぐりと開けた。
本当に彼のすぐ近く、まるでいままで一緒に歩いていたかのような位置に、ひとりの男が立っていた。
「お前、どっかで会った……」
目をしばたたきながら彼は呟いた。
「『どっかで会った』なんてつれないなあ。ま、覚えてもらってただけでよしとしようか」
ぱちんと指を弾いて片目をつむったのは、黒い羽根のついたえんじ色の帽子をかぶり、えんじ色のマントを羽織った、灰色の髪の気障ったらしい青年だった。
「こんばんは。いい夜だね」
「こんばん……だからそうじゃねえって」
また素直に返しかけて、オルフィは首を振った。
「何でお前がここに? この村の奴だったのか?」
畔の村が持つ雰囲気とはあまりにも合わないが、だからこそそう考えた。わざわざやってきそうにないからだ。
「あは、外れ」
にっこりと青年は返した。
「僕は君に会いにきたんだよ、仔兎クン」
「だっ、誰が仔兎だ誰が」
繰り返されて、オルフィは顔をしかめた。「仔」も「兎」も「クン」も喜ばしくない。
「もちろん君さ。アイーグ村出身のオルフィ」
「だから何で、俺のこと」
「まだ思い出さないの?」
「思い出すって何を」
(記憶がないことを)
(責めはするまい)
「……えっ」
耳に蘇った長老の声にオルフィは目をぱちくりとさせた。
(みんな忘れてしまっている)
(記憶がない)
(まだ思い出さないの?)
(思い出すべきでももないだろう)
(オルフィ)
青年の声と長老の声が頭のなかで交錯した。
(――オルフィ)
(あなたは誰ですか)
その混沌を切り裂くように浮かび上がったのは、不思議そうな問いかけ。
こう言ったのは少年魔術師カナトだった。あれはナイリアールの協会にある図書室で。
「お、俺はアイーグのオルフィで……」
彼はつい先ほど繰り返した主張をまた繰り返した。青年は笑った。
「知ってるよ。君がそう信じ、そう名乗っていることはね」
「『信じ、名乗っていること』だって?」
オルフィは顔をしかめた。
「それじゃまるで、俺の本当の出身や名前は違うみたいな言い方じゃ」
(お前だ)
(オルフィ)
長老が言った。
(もしかして婆ちゃんも)
(「オルフィ」ってのが偽名か何かだと……?)
彼はそう考えた。
「本当だ!」
憤然と若者は叫んだ。
「俺は『オルフィ』だよ! 何なんだよあんたも婆ちゃんも黒騎士もさ! 俺を誰と間違えてるんだ!」
「嫌だなあ、オルフィ」
くすくすと青年は笑う。
「僕に長老に黒騎士。みんなして君がそうだと言ってるんじゃないか。反対してるのは君ひとりだけだよ」
「ひとりとかふたりとかいう問題じゃないだろ!」
彼はもっともなことを言った。少なくとも自分ではこの上なく正論だと思った。
「俺のことは俺がいちばんよく判ってる。俺は、アイーグ村のオルフィ以外の何もんでもなくて」
「判ってないよ!」
青年は彼の言葉を遮ったが、怒りなどからそうしたのでないことは、楽しげに笑っている様子から明らかだった。
「ああ、こんなに可笑しいなんて思いもしなかった。君はまた昔と違う形で僕を楽しませてくれるねえ」
「何が昔だよ、いい加減にしろよな」
長老には困惑するばかりだったが、この青年には腹立たしいものが浮かんでくる。
「だいたい、あんたは誰なんだよ。長老や、まさか黒騎士を知ってるのかよ? それにいったい俺をどこのどいつと取り違えて」
「取り違えてなんかいないよ。何も覚えていない、可哀相なオルフィ」
「覚えてるよ! 俺は、自分のことくらい、ちゃんと」
「へえ? 生まれた瞬間から何もかも?」
「そんなはずはないだろ。俺が言うのは常識的な範囲内で」
「常識的!」
素っ頓狂な声を出して青年はまた笑った。
「もはや君の存在のどこにも常識的なところなんかないのに!」
「どっ、どういう意味だよ」
青年の言葉がさっぱり判らない。
(こいつ、相手にしない方がいいのか?)
(もしかしたら〈嘘つき妖怪〉みたいな出鱈目野郎で、真面目につき合うと馬鹿を見るとか)
その考えは納得のいきそうな感じがした。
だがおかしなところもある。
どうしてモアンの町で――あの町だったと思い出した――すれ違った「出鱈目野郎」が、彼と同じときにこの畔の村にいるのか。
(偶然俺たちと同じ旅程で、偶然同じ歩調でやってきた、なんてのは考えづらい)
(魔術師だってんなら、判るところもある、かな?)
彼はこの青年が魔術師ではないかと考えたことも思い出した。
(でもそれにしたって、何でわざわざ)
ちょっと適当なことを言って不安を煽り、厄除けの札などを買わせる詐欺師。あのときはそうした相手ではないかと思って忘れてしまうことにしたのだ。だがどうやらそれも考えづらい。そんなけちな詐欺師が、大してラルを持ってもいなさそうなオルフィを追いかけてくるなんて。
(追いかけて)
(そうだ、こいつ)
(俺を……追いかけて?)
その考えはぴたりとはまり、オルフィはぞっとした。