09 去れ
家はふたつかみっつの小さな部屋から成っていた。声は奥から聞こえ、オルフィはもう一度深呼吸をして進んだ。
奥の部屋への扉は開いており、彼はそれをくぐって〈湖の民〉の長老と対面した。
(あれ……)
いささか意外で、彼はまばたきをした。
(お婆さん、だ)
長老と言うのは男だと勝手に思い込んでいた。だが揺り椅子に腰かけてこちらを見ている小柄な人物は、長い白髪を編んだ老婆と見えた。
「初めまして。南西部にあるアイーグ村出身の、オルフィと言います」
丁重に丁重に、とオルフィはまず名乗った。
「――何故、きた?」
返ってきたのはそんな問いだった。
「ええと、おかしな話に思われるかもしれないんですが……」
結局、この短い間ではどうやって話を切り出すかちゃんと決まらなかった。オルフィは頭を巡らせた。
(やっぱり黒騎士のことからかな)
だが彼の思考はぴたりととまってしまうことになる。
長老の問いはこう続いたからだ。
「何故、戻ってきた?」
「……え?」
「お前は、ここに戻ってくるべきではない。お前がもたらした災厄のことは忘れよう。だが、お前がこの湖に近くあることは」
老婆の眼光が鋭く光った。
「危険だ」
「な、なな、何ですか」
オルフィの声はかすれた。
「もしかして、誰かと勘違い――」
そう言いかけてはっとした。
「あっ、そ、それです! その人の話を聞かせて下さい! そ、それは俺じゃないです!」
黒騎士が取り違えた「誰か」。ルサ。長老はそのことを言っているのに違いないと、オルフィの頭は忙しく働いた。
「実は俺、そんなふうに間違われて、戸惑ってたんです。俺を誰かと間違えた人物がエクール湖に行けと言ったから、何か判るかと思って」
口早にいささか説明の足りないことを言った。
「いいや」
だが老婆の様子は変わらなかった。
「お前だ」
「ち、違い、ます」
オルフィは引きつった。
「俺はここにきたのは初めてです。災厄だなんて知らないし」
「たとえその記憶に残っておらずとも、お前はお前だ。十余年が経っても見間違いはしない」
淡々と、いや、どこか厳しさを伴う口調で長老は言った。
「誤解、勘違い、人違いだよ! 俺はアイーグ村で生まれたオルフィで」
「生まれた?」
長老は聞き咎めた。
「お前はどこで生まれたと?」
「だから、アイーグ……」
オルフィの語尾は弱くなった。
(あれ……俺)
(知らない)
物心ついたときにはアイーグ村で暮らしていた。あんまり幼い頃のことは覚えていないが、それは当たり前であるはずだ。
だが自分が本当にあの村で生まれたのかと言うと、それは知らなかった。彼は母親のことを知らず、父親は過去のことを語らないからだ。
(そうだ、それだけだ)
(父さんから聞いたことがないってだけで、俺はアイーグ村生まれ)
(そのはずじゃ……)
何だか奇妙な気持ちがした。オルフィはぶんぶんと首を振る。
「せ、正確な生まれはもしかしたら違う村かもしれないけどさ! どうせ南西部のどこかさ。少なくともこの村なんかじゃないし、俺がここにきたのは初めてだって」
こうなっては礼儀もへったくれもない。オルフィは悲鳴のように叫んだ。
「記憶がないことを責めはするまい。思い出すべきでもないだろう。だが疾く去れ。お前がここにいることは災いを引き寄せるだけ」
「ちょ、ちょっと待てよ……待ってくれ……」
どうしたら誤解が正せるのか。父親でも連れてきて証言させればいいのか。だがウォルフットは遠くルタイの詰め所で鍋を振るっている。もとより、この調子では父がきっぱり否定しても信じてもらえなさそうだ。
「そ、そうだ、この籠手」
彼は思い出した。
「これを見てくれ! 知ってるか判らないけど」
オルフィは包帯の結び目を解いた。
「黒騎士の野郎は、俺が、じゃない、その誰かがこれを身につけてるのはおかしいっていうようなことを言った。そりゃそうさ、俺はそいつじゃないんだから!」
「黒騎士だと? それに……籠手」
「ああ、これだ!」
彼は青い籠手アレスディアがあらわとなった左手を差し出した。
「それは……アバスター殿の……」
老婆は細い目を見開いた。
「ア、アバスターのことも知ってるのか? じゃあ、ラバンネルのことを知ってるって話はまさか」
伝説の英雄たちは、ともにこの村を訪れたのではないか。オルフィの内にそんな推測が湧いた。
「アバスターと、ラバンネルが? 彼らは一緒にいたのか? もしかして……いまも?」
それはすがるような期待だった。国中にその名を轟かせる英雄がふたりも――ラバンネルの方は知られていないとは言え、魔術師たちにはアバスター同然だという話だ――いてくれたら、何でも解決しそうに思える。この誤解だって正せるに違いないと、オルフィは何の根拠もなく思った。
「彼らの居場所を知ってるのか? だったら教えてくれ、いま、俺とナイリアンには彼らの力が必要なんだ!」
相手が年寄りではさすがに掴みかかることもしなかったが、オルフィはそんな勢いで長老に迫り、懇願した。
(ラバンネルなら、この籠手を外してくれる)
(それに、アバスターなら)
(……ジョリス様ができなかったことをしてくれるかもしれない)
痛みを伴う思考。
冷静に考えれば、それは困難だと判るはずだった。三十年前から足跡の途絶えた英雄がもし生きていたとしても、当時と同じように剣を振るえるはずはないからだ。
だがこのときオルフィの内に浮かんだのは、子供の頃から聞かされてきたアバスターの英雄譚だった。
ラバンネルが籠手を彼の腕から外し、本来の持ち主であるアバスターが身につければ、黒騎士騒動などあっさりと終わらせてくれるのでは、という――子供のような夢想。
「彼らは、自らが必要とされていると判断すれば、その場に赴こう」
老婆は顔のしわを深くして言った。
「もとより既に彼らは、自らの役割を果たし終えているのやもしれん」
「そ、それはどういうことなんだ」
さっと冷水が浴びせられた気分になった。
「ふたりとも、もう死んでる、とか……?」
十二分に有り得ることだ。少なくともアバスターは死んだと思われている。そうでなければ、三十年前までよく聞かれたはずの勇猛な噂がぱたりと消えてしまうことはないはずだからだ。
だがラバンネル。彼には生きていてもらわないと困るのだ。
「判らない」
幸いにしてと言おうか、長老は首を振った。
「彼らが残した導きをお前がたどったのであれば、これもまた運命なのかもしれぬが」
「導きなんか、何も」
言いかけてオルフィは言葉をとめた。
カナトが散々、言っていた。
オルフィだから籠手の入った箱を開けられたのだと、少年魔術師はそんなことを。
「んな、馬鹿な」
彼は呆然と黒髪をかき上げた。
「俺はただの、田舎の荷運び屋だよ。剣も使えないし、もちろん魔術だって」
何が起きているのか判らない。頭がおかしくなりそうだ。
「そ、そうだ! ラバンネルも人違いをしたのかもしれない」
オルフィにではなく「ルサ」に託そうとしたのではないか。彼は混乱してそんなことを口走った。
「とにかく、『それ』は俺じゃないんだ! いったい誰なのか、どんな人間なのか、教えてくれっ」
「哀れな」
老婆はそっと目を伏せた。
「何故、このようなことになったのか。エク=ヴーよ、これは御身によって与えられた試練なのでありましょうか」
嘆くような調子で長老は手指を動かした。それは湖神エク=ヴーに祈る仕草と見えた。
「なあ、訳の判んないこと言ってないで教えてくれよ……」
情けない声でオルフィは頼み込んだ。
「アバスターやラバンネルの居場所が判らないって言うなら、それは仕方ないさ。でもあんたがさっきから糾弾してる、俺じゃない誰かのこと。そいつの名前は? 年はきっと、俺くらいってことだよな。外見も似てるのか?」
「名前」
老婆は再び表情を険しくした。
「それを言うことはできない、オルフィよ」
「へっ?」
またしても彼は混乱しかけた。
(俺を「オルフィ」だと判ってるんじゃないか)
(その上で、誰かだって言うのかよ?)
「名を呼べば、返るであろう。そしてそれは何をもたらすか知れたものではない」
「訳が判らない」
オルフィは顔をしかめた。
「さっぱりだよ。でも『それ』が俺じゃないってことは認めてくれたんだな?」
「――いや」
「何だよ!」
またしても彼は悲鳴を上げた。
(何なんだよ、この婆さん!)
(〈湖の民〉の長老ってのは、まさか呆け老人なのかよ!?)
そんな酷いことを思った。もっとも、彼の立場からすれば仕方のない反応と言える。
「疾く、去れ」
再び長老は告げた。
「そして二度とこの〈はじまりの湖〉を訪れぬことだ。お前自身とナイリアン国を不幸にしたくなければな」