06 絶望
以前は、就寝前に必ず燭台の灯を落としていた。眠っている間の灯りは不要であるし、もし倒れて火事にでもなっては大変だ。何も特別な習慣ではなく当たり前のことだった。
だがあのときから、彼女は火を落とせなかった。
暗闇が怖かった。
眠るために目を閉ざすことすら。
しかし、いつまでも体調不良を理由に占いを休んではいられなかった。ピニアのような名のある占い師が長いこと看板を下げていてはよからぬ噂が立つ――たとえばナイリアン国の滅亡を予見したのだというような――と、占い業の再開を指示されたからだ。
上位の力を持つ魔術師が支配の意図を持ってかけた魔術は、彼女を操り人形のようにしていた。行動を逐一操られるということはないが、このようにせよ、こうしてはならぬという命令や禁止は強力で、逆らうことのできないものだった。
宮廷魔術師リヤン・コルシェントは何を企んでいるのか。
おおよそのところは、知れていた。
簡単に言えば権力の増大というようなこと。キンロップに秀でれば、彼は自分の意見をほとんど完全に通すことができるだろう。いまの状態であれば、実質上は彼が最高権力者となる。
国の頂点に立つ。それは高みを望む者の野望として、よくあるもの。いまの世の中、新たに国を興すことなどはまず不可能。国がほしければ反乱を起こして乗っ取るか、実質的な支配者になるかというところだ。コルシェントはそれを狙っている。
だが、ほかにもやり方はありそうなものだった。キンロップを追い落とすことは簡単でないだろうが、コルシェントが採っているのは回りくどく、かつ危険な橋だ。
子供殺しの黒騎士で人々の不安を煽り、それを自らの指示で征伐することにより手柄を得る。確かにキンロップを大きく引き離すことになるだろうが、もし自分が背後にいると知られたなら失脚では済まない。
何より、子供たちを殺して回るなど、邪この上ない計画だ。
何故なのか。彼女にはそれは判らなかった。
材料が少ないということもあれば、コルシェントが彼女に考えさせないようにしていたからでもある。
ぼんやりした頭は魔術のせいなのか、眠りが足りないせいなのか。
それでも、眠らなくてはならない。ピニアは憂鬱な気持ちを抱えながら、心を鎮める作用のあるリシュカの香を焚いた。
月明かりの差し込む部屋で、ピニアはあの日のことを思い出した。〈白光の騎士〉を見送った――見送ってしまった、あの月夜のこと。
どうしてとめなかったのか。いや、とめられなかったと判っている。それが彼の運命だったのだ。たとえ彼女が泣いて引き止めても、ジョリスが足をとめることはなかった。たとえ彼女がこの先の出来事を見て告げたとしても、やはりジョリスは行っただろう。
判っている。もとより、もしもピニアが「見た」としたら、必ずジョリスはその通りの運命に歩を進めたことになる。これは占い師の陥る、身を切るような矛盾。
判っているのだ。だが苦しい。胸が張り裂けそうだった。優しい香りが漂ってきたが、彼女の哀しみと痛みが癒されることはなかった。
かたん、と部屋の反対側で物音がした。ピニアははっとして振り向いた。
鼓動が高まる。これは、恐怖。
彼女が覚えたのは不安ではない。賊が侵入してきたのではなどと疑ったのではない。
はっきりとした怖れ。
そこにいるのが誰であるのか、ピニアには〈真夏の太陽〉のように感じられていた。
「ごきげんよう、占い師殿」
すっと人影が青白い光のなかに歩を進めた。
月 は冷酷に、その姿を映し出した。
きらめくような金の髪。蒼玉のごとしと言われる青い瞳。
それは彼女が慕い、恋い焦がれる男の姿だった。
いや――その姿に、よく似ていた。
「今宵も、お休み前の一刻を私のためにいただけませんかな?」
そう言ってジョリスの顔をした男は、ジョリス・オードナーが決して見せない、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
抗えぬ魔力に絶望を覚え、ピニアは両手に顔を伏せた。
「どうなさいました? 顔をお上げなさい」
笑いを含んだ声は、彼女の恋する〈白光の騎士〉のものではない。
「あなたが哀しみに暮れる姿を見るのは心が痛むのですよ、美しいピニア。ですから、あなたの望む姿でお相手を」
手が伸ばされ、彼女の肩に触れる。ピニアはびくりと身を強ばらせた。
「今日は思うように仕事がはかどりませんでね。少々疲れているのです」
気にせぬ様子で、魔術師は言った。
「身を寄せ合い、互いを慰めようではありませんか」
満足げな、そして嗜虐的な笑いが、薄闇のなかに静かに木霊した。