09 厄介なとき
親切な神官は彼らを小部屋に通し、カラン茶まで振る舞ってくれた。
「それで」
茶杯を片手にすっかりくつろぐような風情を見せながらラスピーはヒューデアを見た。
「『聞きたいこと』というのは?」
「小火のことですか?」
続けてリチェリンが問うた。
「それもある」
「ではほかには」
「オルフィのことだ」
「あ、でもイゼフさんはオルフィには会っていませんよ」
実は、と彼女はイゼフを待つ間にオルフィたちが追われて姿を消してしまったことを説明した。
「そうか。だがかまわない。俺は彼の印象を訊きたい訳ではないからな」
「では何を?」
不思議に思ったリチェリンは重ねて尋ねた。
「オルフィの状況について、何かご存知かもしれないだろう」
「えっ?」
「成程、自分を訪ねてきた人物が町憲兵に追われたとなれば、気になって調べることは有り得そうだな。しかしあまり神官殿らしくはないかもしれんが」
「そうではない」
ヒューデアは首を振った。
「先ほども言ったが、イゼフ殿はジョリスのことを知っていた。俺は彼からそのことを聞いた」
「公表されていない秘密の事実を……ということだね」
ラスピーは確認し、ヒューデアはうなずいた。
「彼は城内の、とある人物から信頼されている。そこでいち早くそのことを知った」
「ちなみに、君がイゼフ殿から知らされたのは? 信頼されているから?」
ラスピーはかすかに笑った。
「『信頼』していれば秘密を外に洩らしてもいい訳か。ふふ、極秘情報にも意味がないね。案外、公表される前に誰もが知っているということになってしまうんじゃないかな?」
「ラスピーさん」
リチェリンは少し顔を険しくした。
「ヒューデアさんを責めるのはお門違いです」
「責めたつもりじゃない。ただ、たとえば勅命で禁じたところで、国王でさえ油断できないようだなという一般論さ」
「そうは聞こえませんでした。信頼して話したことをまるで口が軽いかのように」
「しかし実際、軽い」
どうにも悪びれずにラスピーは言った。
「ヒューデア君に至っては、会って間もない私たちに伝えたのだからね」
「ラスピーさん!」
「いや、いいんだ。責めてはいないよ。大事な秘密を教えてもらってとても感謝している」
あくまでもにっこりとラスピーは言い、ヒューデアは沈黙を保った。
「ラスピーさん」
三度彼女は諫めるようにその名を呼んだ。
「ヒューデアさんが軽率な方でないことは、これまでのおつき合いで判っているはずです。もとより、信頼していただけたことを揶揄するなんて」
「そんなつもりではない、と言っているだろう?」
「アミツの見るものについて、余所の者に理解してもらおうとは思わない」
ゆっくりとヒューデアは言った。
「ふむ。アミツが私たちを信頼してよいと言った、と?」
「アミツは明確な言葉を語りはしない。だが言葉は必要ない」
理解してもらうつもりもないが、と続いた。
「まあ、もういいさ。責めるつもりも理由もないし、そもそも揶揄するように聞こえたのは私が悪かったさ」
ラスピーは肩をすくめた。
「――イゼフ殿は、城の情勢を耳にしているかもしれない。俺が言うのはそういうことだ」
話を戻し、剣士はそうとだけ言って口をつぐんだ。
「オルフィのことが、何か判るかしら」
呟くようにリチェリンは言う。
「判らない方がいいんじゃないかな?」
とラスピー。
「彼の動向が分かるということは、彼の足取りが掴まれている、或いは彼が捕らえられてしまったということになるのだから」
「それもそうね」
顔をしかめてリチェリンはうなずき、目を閉じて少しうつむくとオルフィの無事を祈った。
少しすると、部屋の扉が開かれた。三人の視線が一斉に注目する。
「イゼフ殿」
「お邪魔しています」
「お初にお目にかかる」
立ち上がって彼らはコズディム神官に挨拶をした。
「ヒューデアとリチェリン殿か。それに」
「ラスピーとお呼びあれ」
紀行家は優雅に礼をした。
「コズディム神官イゼフと申す」
彼らの父親よりも年上に見える神官は静かに名乗りを返した。
「私に用であるとか」
「オルフィという若者のことをお聞き及びと思う」
ヒューデアが口火を切った。
「その後、彼自身や彼の持つものについて何かご存知ではないだろうか」
「いや」
短くイゼフは答えた。
「オルフィ殿の名を耳にしたのはリチェリン殿から聞いた日以来だ」
「そうですか……」
残念なような、ほっとしたような気持ちで彼女は相槌を打った。
「大変なときにすまなかった」
ヒューデアは謝罪した。
「ああ、火事のことか」
神官は顔をしかめた。
「やはり〈ドミナエ会〉かな?」
気軽にラスピーが尋ねる。
「……そのようだ」
苦々しくイゼフはうなずいた。
「つい先ほど、城から報せがあった」
「祭司長に声明が届いたか。自己顕示欲の強い連中だな」
呆れたように紀行家は言ったが、どこか面白がっているような様子があった。
「しかし首都の神殿に火つけとは。何を考えているのか知らないが、今度こそ〈ドミナエ会〉もおしまいじゃなかろうかね」
「ヒューデア」
イゼフは剣士を見た。
「キエヴの方は」
「あれ以来、〈ドミナエ会〉の気配はない。鼠でも片づけるつもりで狼に蹴散らされた怖れと恥は、まだ忘れていないと見える」
剣士は少し誇らしそうに言い、じっとイゼフを見た。
「ふむ」
ラスピーが片眉を上げる。
「キエヴは訪れていないが、エクールのように戦い手が残っているのか。ヒューデア君を見る限りでは、武器は剣に換えたということかな」
「エクール?」
イゼフが聞き返した。
「〈湖の民〉のことか」
「その通り。ヒューデア君は認めたがらないが、〈湖の民〉エクールと北の民族キエヴは、もともとひとつの」
「戯言だ」
苛ついたようにヒューデアは手を振った。
「そのことは判らないが」
イゼフは意見を差し控えた。
「以前、キエヴが会に襲撃を受けた頃、〈湖の民〉もまた同じような被害に遭ったそうだな。やはり彼らも追い返したということだが」
「エクールには湖神の加護を受けた戦輪の使い手がいるからな。湖神信仰を侮るとは〈ドミナエ会〉も愚かなことをしたものだ」
「詳しいようだな、ラスピー殿」
片眉を上げてイゼフはラスピーを見た。
「私は旅の紀行家でね。エクール湖の畔の村に見られるような独特の文化には大層興味があるんだ。いずれキエヴ族も訪れてみたい。ヒューデア君、是非案内を――」
「断る」
キエヴの剣士の答えは早かった。ラスピーは残念そうな顔をした。
「それにしても、十年くらい前の〈ドミナエ会〉は標的を八大神殿以外としていた。それがいまでは神殿に喧嘩を売っていると」
いったい、とラスピーは首をかしげた。
「何のつもりなんだろうね。勝算があるのかな」
「勝算だなんて」
リチェリンは眉をひそめる。
「そのような不埒で不遜な集団には必ず神の罰が下るに決まっているわ」
「しかしまだ下っていないね?〈ドミナエ会〉が暗躍するようになって数十年……神様はずいぶんのんびり屋らしい」
「それは……」
「ラスピー殿、リチェリン殿」
イゼフが片手を上げた。
「神は容易に奇跡を起こさない。問題の多くは人の手で解決すべきことだからだ。神を信じる心というのは、ただ奇跡を願い、神の力に頼ることとは違う。強い心を持ちて生きること、たとえ神々を前にしても照覧あれと胸を張って行動できるだけの信念。信仰は人が自らの力で歩むための助力であり、神は赤子の世話をする母親ではない」
静かな声で神官は語った。
「無論このようなこと、リチェリン殿は学んでいるだろうが」
「あ……はい」
少し頬を染めてリチェリンはうなずいた。
(何でもかんでも神に頼るなど、タルー神父もいけないと仰っていたわ)
(人目をはばかって悪事を働いても、神は見ている。或いは、どんなにつらいときでも見ていて下さる。そうして自らを律し、強く在るために神と信仰は存在するのだと)
「神罰が下る」などとは軽率な物言いだった。神女見習いは反省した。
「……〈ドミナエ会〉の話はもうよかろう」
イゼフは表情を曇らせて手を振った。
「オルフィ殿について何か判れば知らせよう。だが期待はせぬことだ。誰も私に詳細を知らせる義務など負っていないからな」
彼は尋ねる立場にはなく、偶然耳にすることしか聞くことがないと、神官はそうしたことを言っているようだった。
「このような暴挙に出たからには、キンロップ祭司長も黙ってはおられるまい。全く、厄介なときに騒ぎを起こすものだ」
「厄介なとき、とは?」
ヒューデアが尋ねた。
「……ちょうどいい、と言うのも相応しくないが、まだお前が首都にいるようなら公表されるより先に話を伝えたいと考えていた」
イゼフが言うのは、ヒューデアに対してのようだった。
「公表?――ジョリスの話か? だがそれは」
「また別の話だ」
神官はリチェリンとラスピーをちらりと見た。
「あとにするとしよう」
「いや」
剣士は首を振った。
「ジョリスの死については話してある。イゼフ殿が俺に何を伝えるおつもりだとしても、彼らにも話していただいて結構だ」