07 とんでもない狼藉者
彼らがそんな話をしていたのは、すっかり常連になってしまった宿屋の食堂にてである。リチェリンは宿屋の子供に簡単な本を読み聞かせすることを条件に、ここでの食事を出してもらうことになっていた。
それを見たほかの常連客がうちの子供にもと言っていくばくかのラルを払ってくれるようになり、路銀が限られていた身には大いに助かった。そうでなければ彼女は何か仕事でも見つけなければならなかったし、そうなれば時間の自由が利かなくて往生したことだろう。
一方でラスピーとヒューデアは普通に代金を支払っていた。やはり金持ちであるらしいラスピーは彼女の分も払うと言っていたのだが、さすがに頼りづらいというものだ。ヒューデアの方は長の首都逗留を考えて資金を用意してあったらしく、稼がなくても問題ないらしい。
初めの内は珍しい組み合わせと興味を持たれたが、何日も過ごすと給仕たちが代わる代わる様子を見にやってくることもなくなった。客の少ない朝の食堂で、彼らはそっと内緒話――主にはジョリスのことや「王家の宝」について――ができたという辺りだ。
「しかし〈赤銅の騎士〉サレーヒ殿だったか? その人は怖い人なのかい?」
ラスピーはヒューデアに尋ねた。
「いや、そのようなことはないが」
「ならもう一度、話してみたらいいじゃないか。騎士だって人の子だ、話せば判る」
「彼の好悪で決めたことではないはずだ。騎士として……〈赤銅〉の身でありながら、いまや騎士たちの最上位と見なされるであろうサレーヒ殿に迷惑はかけられない」
「そんな態度ではどうかと思うね」
息を吐いてラスピーは首を振った。
「君はリチェリン嬢に協力して『真実』を探すつもりでいる。それならば全力で協力したまえ!」
「ちょ、ちょっと、ラスピーさん」
慌ててリチェリンは巻き毛の青年を制止した。
「いいんです。私だって、ヒューデアさんに迷惑はかけられない……」
「ヒューデア君から騎士殿に、騎士殿から王子殿下に話を回してもらえれば、さっき言っていたような可能性の低すぎる偶然を待たなくてもいい。オルフィ君を助けたいんだろう?」
「もちろんだわ。でもそのこととは別よ」
「別じゃない。『人に迷惑をかけたくない』という君たちの考えは非常に立派だが、それだけでは成せないことも多いと気づくべきだ。時に疎まれ、嫌われ、憎まれても自らの思うところを強行する、それができる人物こそ大成する!」
どん、とラスピーは演説でもしているように卓を叩いた。
「おや、失敬」
衝撃で皿ががしゃんと揺れたことに対してであろう、紀行家の青年は謝罪の仕草をした。
「――おい! 大変だぞ!」
そのときである。ひとりの若者が食堂に飛び込んできた。彼ら三人を含めた少ない客と、それから店の人間の視線が集まる。
「どうしたんだい?」
知り合いであるらしい新来客に、宿の女将が驚いた顔で声をかけた。
「そんなに大声を出して」
「火つけだ」
「何だって?」
「神殿に火がつけられたんだ。小火程度で済んだみたいだが、あの区域はいま大騒ぎさ」
「神殿に? 何とまあ、とんでもない狼藉者がいたもんだね。捕まったのかい?」
「いや、夜の内に起きたことらしくて、誰も人影すら見ていないらしい。神官様がすぐに気づいて大事には至らなかったそうだけど、侵入者がいたようだことだ。町憲兵隊の調査に野次馬が集まって、いつも静かな神殿付近が人だかりだよ」
「あの」
思わずリチェリンは立ち上がっていた。
「神殿というのは、どちらの神殿なんでしょう?」
「それが、聞いてくれよ」
若者がにやりとしたのは、いささか不謹慎ながら、この場で自分だけが情報を持っていることに対する優越感からだっただろう。
「ひとつだけじゃないんだ」
「何ですって?」
「三つさ。フィディアルとラ・ザインとコズディムがやられた」
「コズディムだと」
ヒューデアも険しい顔つきで立ち上がった。
「神殿の状況は。小火だと言うが、怪我人などはいないのか」
「ちょっとした怪我くらい、神官さんたちは治せるだろ」
「癒しの業を持つのはラ・ザインとムーン・ルーだ」
「そうかもしれんが、神官同士なんだから治してもらえるだろ」
若者はあまり気にしていないようだった。
「とにかく、神殿が火つけの被害に遭うなんて前代未聞だ。〈ドミナエ会〉じゃないかって噂もあるけど、まだ判らないな」
「〈ドミナエ会〉?」
リチェリンは首をひねった。
「何だ、姉ちゃん知らないのか。八大神殿を目の敵にする狂信集団さ。最近は黒騎士の影に隠れちゃってるけど、ちょっと前まであちこちで神殿や神官に絡んでるって嫌な噂が聞かれたもんだ」
「そうだな。北にも出没した」
ヒューデアがうなずいた。
「赤い紋章を描いた白いマントを身につけ、フードをかぶった連中だ。神殿を目の敵にすると言っても、たとえば獄界神のような怖ろしいものを信じている訳ではなく、ほかの信仰を許す神殿は軟弱だと非難している」
「軟弱ですって? どういう意味なの?」
「八大神殿以外の信仰は力ずくで排除すべし。それが連中の考えだ。十年は前だが、われわれのところも襲撃された」
「まあ」
リチェリンは驚いた。
「何てこと。神の名の下に行うことではないわ」
「一時期は大人しかったが、このところまた勢力を取り戻したようだ」
ラスピーが言う。
「最近の彼らの流行りは、八大神殿の信仰は誤りだと主張して、神官や神殿を襲撃することらしい」
「神官を襲撃? まさか」
彼女の脳裏に浮かんだのは、タルーの死のことだった。
「〈ドミナエ会〉……南西部の方では全く聞かなかったけれど……」
「それなら、南西部には行かなかったんだろう」
気軽にラスピーは告げた。
「何でも彼らは、自分たちの行動を示威するそうだ。ヒューデア君の言ったように目立つ格好をしているし、犯行声明も出す」
その現場に紋章を描いた紙を残した上、いついつどこどこで「神罰」を下したというような文書をナイリアールの神殿や祭司長までに送りつけるのだと言う。
もちろん八大神殿は由々しきこととして調査をしており、各街町では町憲兵隊も捜査をしているが、これまでひとりふたり末端を捕らえたことがあるだけだということだ。神官を殺害でもすれば大きな罪に問えるが、そうした出来事はこれまでになく、町憲兵隊としてもちょっとした暴力沙汰として処理するしかないのだという話だった。
(それじゃ神父様のことは会とは関係がなさそうね……)
殺害までは行われていないというし、紋章を描いた紙などはなかった。そんな怖ろしい集団とタルーの死が関わりないというのは安心できることでもあるが、賊だという話も心安らかではいられない。
(ルタイの兵士さんたちは働き者だから、賊はもう捕まったかもしれないわ)
そうだといい、とリチェリンはそっと思った。
「何にしても怖ろしいことだわ。いったいその人たちはどうしてそんなことをするのかしら」
「設立当初はおそらく、崇高な理念があったんだろうと思うね。実際に八大神殿の神官たちが、腐った実情に反発して――」
「腐った実情? どういう意味で言っているの?」
リチェリンは目をしばたたいた。
「おおっとすまないね、リチェリン嬢。だが生憎と、人間は腐るんだ。若い頃は神と人々のために生きると心から誓った神官も、時間を送る内に私利私欲に走るようになる」
哀しいことだ、とラスピーは芝居がかって首を振った。
「そうした人もいるかもしれない、けれど全てじゃないわ」
ここは同意できない。そう思って神女見習いは力強く言った。
「無論、全てではないだろう。だがひとりいればそれは疫病のように伝染していく。腐った林檎たちのなかで『清く正しい心』を維持し続けるのは至難の技だ。たとえ自らは悪事に手を染めずとも、黙って見逃せば腐敗の第一歩」
「でも……」
リチェリンは反論しようとした。ラスピーは片手を上げてそれを制する。
「いやいや、失礼したね、本当に。いまは〈ドミナエ会〉の話だと思ってくれたまえ」
にっこりと彼は告げた。
「崇高な使命を持って設立した会も、時間が経つに連れてただの破壊集団に成り下がってしまったという話だ」
その「崇高なる使命」が腐敗した神殿を正すことだったというのが話のはじまりだったが、ラスピーはしれっと説明を終えてしまった。
「誰の仕業であろうと」
ヒューデアは眉をひそめた。
「すまない。俺はコズディム神殿の様子を見に行ってくる」
「ほう?」
「知人がいるんだ」
「あっ、それなら、私も」
リチェリンも言った。
「私も行きます。お世話になった神官様がいらっしゃるんです」
「なら私も行かざるを得ないな」
ようやくラスピーも立ち上がった。
「まあ、火をつけられたということが騒ぎの大元であって、深刻な負傷者はいないと思うがね」
「そうと知るために確認に向かうのだ」
「ごもっとも」
ラスピーは宮廷式の礼をした。
「では行こう」