02 世が世なら
「北の……?」
彼女が首をかしげれば、ラスピーはリチェリンを振り向いた。
「お嬢さん、〈はじまりの湖〉ことエクール湖のほとりに暮らす民のことはご存知かな?」
「湖の民と呼ばれる人たちのことですか? 話だけなら」
「その通り。彼らはもともと〈はじまりの民〉と名乗っていた。古く遡れば湖の近くで生きていたが、ナイリアール中に暮らしていたこともある」
「はあ……」
話の流れが見えず、リチェリンは相槌だけを打った。
「不幸な出来事があって彼らは数を減らし、ナイリアールの中心から追われた。一部は湖に戻り、一部は湖を越えてラシアッド国へ行き、一部は土地の貧しい北部へと逃げ延びたんだ」
「それっていうのは、つまり」
リチェリンは展開が判らないながらも続けた。
「北の民族というのは湖の民と同じなんですか?」
「その通り!」
「馬鹿なことを」
ヒューデアは鼻を鳴らした。
「アミツを知っているとはある程度の知識を持っているようだが、我らは我ら。エクールの民などとは関わりがない」
「それはそちらこそ勉強不足というものだな、ヒューデア君」
にこにこと紀行家は言った。
「北の民族キエヴと湖の民エクールが同一の根源を持つというのは十二分に考えられることなんだ。湖の民の方では否定していない」
「湖の民がどう言おうと、我らは我らだ」
ヒューデアは繰り返した。
「君たちが手を結べば失われた名誉を回復することもたやすいだろうに」
ふう、とラスピーは嘆息した。
「何だと?」
「ヒューデア君と言ったね。君にその気はないのか? 生涯『北の民族』と呼ばれることに、君の気高き誇りは耐えられるのか。アミツを見る力があるということは、世が世なら君は王族、最低でも上級貴族に相当する地位にいられただろうに」
「貴族? 王族ですって?」
リチェリンは目をしばたたいた。
「その通り。エクールの民やキエヴ族は、ナイリアン王家よりも古くこの地に君臨していた存在なんだ」
「戯れ言につき合うつもりはない」
剣士は手を振った。
「町憲兵隊を呼ばれたくなければ、早くここから去ってもらおうか」
「ふむ」
紀行家は両腕を組んだ。
「そんなに真実を告げられるのが嫌なのか?」
「何?」
一瞬、剣士はきょとんとした。
「ああ、同じ民がどうとかいう話をしているのか。それは戯れ言だと言った通り。俺が言っているのは、今日は話を聞けぬと言っている占い師の館の前でいつまでも問答をしていることについてだ」
「何と」
「『何と』じゃありません」
ようやく口を挟む隙を見つけた、とリチェリンは咳払いをした。
「この人の仰る通りです。ご迷惑ですからもう戻りましょう」
「リチェリン、君は彼の居場所を知りたくはないのか?」
「もちろん知りたいですけれど、それとこれとどういう関係があるのかはっきりさせて下さい」
嘆息してリチェリンはもっともなことを言った。
「まさか占い師の方がオルフィの居場所を占ってくれるとでも――」
「オルフィだと」
反応したのはヒューデアだった。剣士の手が伸びてリチェリンの腕を掴む。
「きゃ」
「放したまえ! ご婦人に乱暴な」
「……違う」
ヒューデアは呟いてリチェリンを放した。
「お前はあの男とは違う。アミツは危険を示していない」
「何のこと? まさか」
リチェリンは動悸を抑えながら言った。
「オルフィのことを言っているの? 危険ですって?」
彼女は顔を青くした。
「まさか、あの子が危険な目に遭うと言うの? どこにいるのか、どうしているか知っているのなら教えて下さい!」
「勘違いをするな」
ヒューデアは冷たく言った。
「あの男がナイリアンに危険を招く……俺にはそう見えている」
「何を言っているの? あなたも何か誤解をしているの? もしや町憲兵たちから何か聞いて勘違いを」
「リチェリン」
ラスピーが警告を発したが、間に合わなかった。
「町憲兵だと。そうか、昨日の騒ぎはあの男を捕らえるためのものか」
「あっ」
言わずともよいことを言ったのだと気づいてリチェリンは口に手を当てた。
「オルフィ君を知っているようだが、君が彼を売ったのかな?」
さらりと笑顔で紀行家は問うた。
「ええっ?」
リチェリンは目を見開いた。
「俺はここの町憲兵隊に義理などない」
しかめ面でヒューデアは密告を否定した。
「――王子にもな」
「王子ですって? いったい」
「たとえばの話だ」
短く彼は言い、オルフィと――或いは自分と――王子レヴラールが関わるというような話をしなかった。
「おかしなたとえね」
何も知らぬ彼女は指摘したが、剣士は肩をすくめただけだった。
「娘。お前はあのオルフィとどういう関係だ」
「私は彼の幼なじみで、姉代わりでもあります」
素直にリチェリンは答え、改めて名乗った。そこでヒューデアも名乗りを返した。
「ヒューデア・クロセニー……?」
リチェリンは口のなかでそっと呟いた。
(どこかで聞いたことがあるような)
しかし生憎と言うか、彼女は思い出すことができず、気のせいだろうと考えた。
「ふうん、クロセニーか」
ラスピーが両腕を組んだ。
「ラシアッドにはクロシアという一族がいる。遠い親戚かもしれんな」
「まだ言っているのか」
ヒューデアは少し呆れたようだった。
「君が否定しようとそれは事実だ、ヒューデア君。北に帰ったら君たちの長に話を聞いてみるんだな。その様子では一族の歴史を子らに教育はしていないようだが、長であれば伝え聞いているだろう」
紀行家は確信しているようであり、北の青年はいささか薄気味悪そうにそれを見た。
「あなたはどうしてオルフィを知っているの」
今度は彼女が問うた。
「アミツが彼を指した」
精霊を見るという青年はまた言った。
「警告、警戒。あのような意味合いで人を指したアミツは初めてだった。一緒にいた少年のことも指したが、そこには危険なものはなかった。お前も同じだ」
「よく判らないわ」
リチェリンは正直に言った。
「でもこれだけは言える。オルフィは私の幼なじみよ。幼い頃から知っているわ。彼が危険な存在だなんていうことは絶対にないと、私は神にかけて誓いましょう」
真剣に彼女は言ったが、ヒューデアはちらりとそれを見ただけだった。彼には彼女の誓いなど重要なものに思えないのだ。
「オルフィは町憲兵に追われているのか。いまはどうしている」
「知らないわ」
「探すか」
「いまは彼を探すより、真実を探すつもり」
真実を。
数秒の間、沈黙が降りた。
「……手を貸そう」
「えっ?」
リチェリンは目をしばたたいた。
「何ですって?」
「俺が手を貸そうと言った。そこの男では大して役に立つまいからな」
「それは、アミツが?」
片眉を上げてラスピーが問えば、ヒューデアは「いや」と言った。
「俺の勘だ」
「つれないことだな」
ふう、とラスピーはため息をついてみせた。
「場所を変えて少し話をしよう。異論はないな」
それを無視してヒューデアは言った。
「ええ」
こくりとリチェリンはうなずいた。
「とりあえず『場所を変えて話すこと』については何も異論ないわ」