09 ちょっとだけ残念
その先にはふたつの扉があったが、老人は窓から顔を出していたのだから普通に考えて街路側だろう。オルフィは戸を叩き、確かに先ほどの老人の声が入るよう言うのを聞いた。
「爺さん、こんちはっ」
「お邪魔します」
オルフィが威勢よく、カナトがぺこりと頭を下げて言えば、ヤクタスは歯抜けの口を開いてほうほうと笑った。
「なかなか礼儀正しいのう。やはりシレキの仲間ではなさそうじゃな」
「あいつ、何なんだ? 自分がラバンネルだとか言ってたけど」
「何と。言うに事欠いてそのような出鱈目を」
「だよなあ」
ほかからも出鱈目と聞いてオルフィは安堵した。十中八九、いや、限りなく十に近く出鱈目だとは思っているが、万一という気持ちもどこかにはあったのだ。
(伝説の大導師が、んな簡単に現れるはずないんだし)
(でもちょっとだけ残念かな)
シレキがラバンネルならよかったのにとは思わないが、それくらい早く見つかったら楽でいいのにと思うような。
(でも、この爺さんが何か知ってるなら、十二分に早い情報だ)
「それで爺さん、ラバンネルを知ってるのか? 友だち? いまも? 生きてるのか? どこにいる?」
「そういっぺんに尋ねるでない」
苦笑してヤクタスは言った。
「生憎だが、いま彼がどうしとるのかは知らん」
まずそこに答えがやってきた。
「そっか……」
「わしよりずっと若かったからな、事故や病さえなければいまも息災じゃろ」
「えっ、そんな年なのか」
少々驚いた。伝説なんて言われているのだから、三十年前の時点で老体、行って壮年かと思っていたのだ。だからこそ、まだ生きているかどうか判らないと。
「わしよりひと回りは年下と感じたからな、いまなら、そうじゃの、五十を半分越した頃かの」
「へええ」
オルフィはラバンネルの印象を頭のなかで書き換えた。
「会ったのはいつ? どこで?」
「質問が増えたの」
老人は笑った。
「そうさね、あれは十年前か二十年前か……」
思い出そうとするようにヤクタスは目を閉じた。十年と二十年にはだいぶ隔たりがあるではないか、と思うのはオルフィがまだ十代だからなのか、それともヤクタス老人がいくら何でも大雑把すぎるのだろうか。
「見た目には、ごく普通の男じゃったよ。陰気な黒いローブも着とらんかった。どこにでもいる、気のいい父親のように見えたの」
「へえ」
とオルフィはまた相槌を打った。
(父親?)
「あの頃まだわしは宿屋の主人をやっとった。いまは息子に譲ったがな」
何でも嵐の夜、どうか自分たちを泊めてくれとやってきたのがラバンネルだったということだ。その話は――シレキのものほどではなかったが――オルフィをぽかんとさせた。
「すごい魔術師だろ? 嵐なんかに困って宿を求めたってのか?」
「魔術師だからと言って何でもできる訳ではないそうじゃ」
「それは知ってるけど、でもむちゃくちゃすごい魔術師様だって話だぜ」
なあ?――とオルフィはカナトを見た。カナトはこくりとうなずいた。
「さすがに天候は変えられないと思いますが、嵐から身を守ることくらいは容易にできたのではと思います」
「事情があったのじゃ」
ヤクタスは言った。
「彼には連れがいた」
「へえ」
それにしたって連れに魔術をかけるくらいのことはやはりできるのではないかとオルフィは首をひねった。カナトも同じように思ったか何か言いかけたが、老人は片手を上げてそれを制した。
「わしゃ、魔術のことは知らんよ。だがな、彼は連れていた子供に魔術をかけたくないと言っておったのだ」
「子供? ラバンネルは子供を連れていたのか?」
「うむ。わしは最初、てっきり父子なのだと思った。まあ、違ったようじゃがの」
成程、それで父親という言葉が出てきたのかとオルフィは納得した。
「子供に魔術をかけちゃいけないとか、あんの?」
オルフィが尋ねれば少年魔術師は渋面を作った。
「そうした考え方も、あるにはあります。たとえば子供にはあまり強い薬を与えないという考えに近いです。効きすぎて、大人ならば避けられる悪い作用が出てしまうというような」
でも、と彼は首を振った。
「一切かけてはならないと言うほどではないですね」
「さあな。わしは知らんよ」
老人は繰り返した。
「ほんのちょっとはかけていたのか、それともお前さんの言うように一切合切かけとらんかったのか」
知らんよとヤクタスは三度言った。
「とにかく、ラバンネルは子連れで爺さんの宿に泊まったんだ」
「うむ。そうじゃった」
老人はうなずいた。
「あの、ちょっといいですか」
カナトが手を上げた。
「ラバンネル術師は黒ローブを身につけていなかったんですよね? なのにどうして彼が魔術師だと判ったんですか?」
「それは彼が自ら言ったからじゃ」
「自ら?」
「何でまた」
「ちょっと困りごとがあってな。大したことじゃなかったんだが、彼は泊めてくれた礼だと言ってそれを片づけてくれたんだ」
「魔術で?」
「もちろん」
「どんなことだったんですか?」
「大したことじゃないと言った通りじゃよ。家族のもので見当たらないものがあったんで、総出で探しとったんじゃ。それをあっさりと見つけてくれたんじゃよ」
「物探しの術ですか」
「難しいのか?」
「在処の目処がついていれば初等術師でも容易ですけど、目処がついているということは魔術に頼らなくても見つけられるということで」
「つまり?」
「その『物』や宿のなかをよくご存知だったはずのご家族が総出で探しても見つからなかったということは、おそらく宿やご自宅にはなかったのではないですか?」
「その通りじゃ」
ヤクタスはうなずいた。
「酒場にきとった酔っ払いが持ってっちまっててな、まあ、悪気はなかったんだろうが、あのままだったら諦めるしかなかったろうなあ」
思い出すように目を細めて老人は話した。
「なかなか礼儀正しいお人じゃった。大導師と言われるような人物とは思えないほど気さくでもあってな。またきてくれと言ったが、その後は結局なしのつぶてじゃなあ」
「そうか……」
相槌を打ってからオルフィは「あれ」と思った。
「それじゃ何で大導師だって判ったんだ?」
「あとになって話を聞いたんじゃよ。最初は偶然同じ名前なのかとも思ったが、やはり彼を探す者がおってな、外見の特徴が一致しておった」
「成程」
そうしょっちゅうではないにしても、やはり「伝説の大導師」を探す人間はこの付近に現れるようだ。
「まあ、偉そうに言ったが、わしに話せるのはこれくらいのものじゃ。何かの役に立つかの?」
「うん、ああ、有難う。すごく参考になった」
オルフィは礼を言った。
あまり有用な情報とは言えないが、少なくともラバンネルという人間が実在していることは判った。
「あの……いいですか」
カナトがまた挙手をした。
「何じゃね」
「お爺さんがラバンネル術師に会ったのはそのときだけですか」
カナトが尋ねた。
「彼がこの付近に頻繁にやってきていたという話もあるようなんですけれど」
〈導きの丘〉のことだろう、とオルフィは聞いていた。
「わしはあのときが最初で最後じゃな。彼もこの町に慣れていたなら見知らぬ宿屋の戸を叩きはせんかったじゃろう」
「成程。仰る通りですね」
こくりとカナトはうなずいた。
「彼は当然〈移動〉術を使えたでしょうから、『丘の近くの町である』ことは特に意味を持たない可能性もあります」
丘に直接魔術で飛んでいくことができる、ということだとオルフィも判った。このマルッセの町でヤクタスが会ったのは偶然であって――偶然ではなくたとえ運命だとしても――ラバンネルはマルッセが初めてだったか、少なくとも慣れてはいなかった。
「すみません、マルッセに魔術師協会はありますか」
「何じゃと? ああ、協会か。ないんじゃ。用事のある者は隣町のモアンを訪れるらしい」
「モアンにはあるんですね。有難うございます」
「協会がどうしたんだ?」
オルフィは首を傾げた。
「ヤクタス殿が仰ったでしょう、ラバンネルは術を使ったと。協会は街町で発生した魔術を管理するんですよ。近隣の町に協会がなければその分も」
「へえ、それじゃラバンネルがここで魔術を使ったかどうか判るってのか?」
「ここで使ったかどうか判ってもあまり役には立たないです」
カナトは肩をすくめた。
「でも時期や……波動の特定ができれば、手がかりになるかもしれません」
「波動とかってのは確か」
「ええ。人の生命、魂が発する力を表す言葉ですが、魔力そのものについてもそんなふうに言います。魔力もまた、術師ごとの性質や傾向があるものなんですよ。たとえば同じものを描いても絵師によって全く違う絵ができ上がるように」
「へえ」
そのたとえは何となく理解できた。
「もうひとつ、いいですか」
カナトは老人を見た。
「お爺さんは先ほど、十年か二十年前と仰いましたが」
「そう言うな。十年というのはお前さんたちには永遠にも感じられるほど長かろうが、こうして長く生きておると一年一年というのがどんどん短く思えるように」
「すみません、そうじゃなくて」
少年は謝罪をしながら遮った。はっきりしないことを糾弾する意図ではない、と。
「ラバンネル術師は三十年前から消息を知られていないんです。十年前でも二十年前でも、生きていたことが確かであれば大収穫です」