怒りを天秤へ
「官邸が燃え上がっています!」
ヘリコプターに乗った男性リポーターがそう声を荒げている様子が、テレビに映し出されている。カメラが変わり、映し出された官邸は、ごうごうと燃え上がっている。消防は、何故か遅れており、今から消火活動を行うようだ。その様子を、ぼーっと眺めていた私は、煙草に火をつけようとし、やめた。
清々とした気持ちだった。
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いつもと同じ帰路を、いつもと同じように歩いて帰る。時刻は、8時を過ぎている。一、二年生の時にさぼっていたツケが今になって回ってきており、こうして夜遅くまで勉強してから帰るのが、習慣になっているのだ。
12月後半の東京の寒さは、宮崎出身の私には、厳しく、徒歩40分の道は、かなりの苦痛であった。自転車なり、バスなりを使えば、多少ましにはなるのかもしれない。それでも私は、いつも歩いて帰ることにしている。
というのも、大学の駐輪場はいつもひどい混みようだし、バスはバスで、乗るのも精一杯なほどに混雑している。私は、人混みがひどく苦手だ。人と人が、皆同じように、行動し、互いに気を遣いあう、そんな空間に身を置くと、自分でも何故かわからないが、異常にふつふつとした怒りがこみ上げてくるのだ。
同じような理由で、大学そのものも嫌いであった。なにも勉強が苦痛だからと、一、二年生の時期をさぼっていたのではない。むしろ、高校生のときは、良い大学に入ろうと必死に勉強し、世間ではエリートコースと言われる、今の私立大学に入学することができたのだ。しかし、教室や食堂で、何故か、怒りがこみ上げてくるのだ。
怒りというのは、なんとなく避けたい感情だ。なんとなく。
こんなにも嫌ならば、大学を辞めればいいのではないかとも思うのだが、裕福でない母子家庭から、東京に出てきた私は、当然奨学金を満額で借りているし、社会人の姉からも少し援助を受けている。そんな訳で、なかなか辞めるということにもいかないのだ。なによりも、期待をしてくれている母と姉を裏切るというのは、今の私にはできない。
歩き始めて20分、官邸沿いの道に差し掛かったころだ。猛スピードで反対から走ってきた自転車と衝突した。右半身が接触した私は、コートのポケットに深く手を突っ込んでいたせいもあり、そのまま転倒した。起き上がったころには、自転車に乗った男は、そのまま体制を立て直し、見えないところまで、走り去っていた。
歩道の反対側にいた何人かは、こちらを一瞥しただけで、なにも見なかったかのように、歩き出した。
「謝罪の一つもねえのかよ」自分だけが聞こえるくらいの声量で、つぶやく。そもそも歩道を自転車がはしるなよとか、無灯運転するなよとか、そんなことを考えると一層怒りが溜まってくる。
しかし、何よりも、気に入らなかったのが、歩道の反対側にいた何人かの視線だ。ああいうやつらは、おそらく一人が助けたら、皆助けに来る。それでもって、気を遣っているふりを皆でする。まるで、自身が善人であることを社会に証明するように。でも、一人が歩き出すと、皆歩き出す。示し合わせたように、それがルールだとでもいうように。
怒りが溜まる。
気に入って着ているコートも少し汚れた。そんなコートから、煙草を取り出し、火を付け、歩き出す。溜息と共に、煙を吐き出す。いつも、怒りが自分からあふれそうになると、こうして、煙草を吸うのだ。路上喫煙は、咎められるべき行為だ。先の、無灯運転同様に。しかし、こうしていると、何故か落ち着くのだ。なにか、気持ちが清々とするのだ。
「官邸か....」なんとも立派な建物だ。ここには、今まで、偉いやつや金持ちや、この社会を作ってきたやつが日々を過ごしてきたのだろう。そう思うと、何故か、いつも通りがかっていて、目に収めているはずの、この建築物が、まるで悪の権化かと思えるほど、憎ましい存在に見えてきた。今までぎりぎりのラインで収まっていたものが、あふれこぼれる感じがした。
私は、そのまましばらく官邸を眺めていた。
同時に、母と姉のことを思い出していた。3人で、苦労し、支えあった日々。
まだ、私は、官邸から目を離せないでいた。
「ああ、そっか」今になって理解した。まるで、閉じていた窓を開けたように、今まで、何に怒りを感じていたのかが、鮮明に理解できた。
私は、社会やルールに縛られるのが嫌なのだ。同じような空間で、同じような日々を過ごすのは、最悪だ。こんな簡単なことに気が付かなったのは、母と姉に迷惑をかけまいとする無意識だったのだろうか。
天秤は壊れてしまった。
この社会をぶっ壊してやろう。皆が、同質化したこの社会を、ぐちゃぐちゃの無法地帯にしてやるのだ。いまの私ではできないが、いずれ、この怒りの炎を留めることなく、まき散らしてやるのだ。例えば、金と人を集めて、火炎瓶なりで、この官邸なんかを燃やしてしまうなんて、ものすごく清々とするだろう。秩序に対する反抗。いつか、綿密に計画を立てて、やってやるのだ。
馬鹿な妄想だ。そんなことできるわけがないのに。しかし、そんな馬鹿な妄想でも心が安らぐから、その続きを考えていた。
そして、口に咥えていた煙草を、官邸に向け、ポイ捨てした。
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