首締めてるだけのやつとは違う料理
高橋はいーちゃん家のフライパンをゆすっていた。中にはひき肉が入っている。ひき肉から油が出るのを根気強く待って、自身の油で揚げるように炒めると余分な油を使わなくてよい。少しほっとくのが良いということだ。その間に他の工程を進めると大変に効率が良い。
ネギと生姜を刻んでいる。使い慣れた様子だ。生姜の細やかさから、料理技術と丁寧な性格を読み取ることもできるだろう。最近はこの友人の家に入り浸って、こうして食事を作っている。広々としたキッチンで、使い勝手がよさそうだ。広いのはキッチンばかりではない。東京下町にある真新しい8畳のアパートで空間に余裕がある。普通これだけ本があったらもっと圧迫感を覚えるものだが、それも感じられない。本は医学書や理系の教科書で、いーちゃんの勉強家っぷりがうかがえた。いまも部屋のなかで机の上のノートに向かっている彼女がいーちゃんである。
ひき肉をひっくり返し少しずつ崩した。油に浸ってぱちぱちとはねまわる。肉の匂いが広がった。おなかのすく、いい匂いが充満する。高橋はしまったという顔をして換気扇のスイッチを入れた。普通は火を付けた時点でつけるべきだし、彼もいつもそうするのだが2回触るくらい忘れてしまったのだろう。さっきまでダーツバーでアルバイトをしてきたところなので疲れているのも無理はなかった。品のない客の相手は疲れるものだ。店のルールをわかってくれない。理解する能力がないのではなく、自分はそのルールを守らなくてよいのだと理解しているように振舞うので大変たちがわるい。彼の左手が眉間に伸びた。
ぐにぐに。
そのせいで、ひき肉の色がグレーに変わったところを見逃したが、ブラウンになっていなければ大過ない。刻んだネギと生姜、小麦不使用の豆板醤を炒め始めた。そう、この豆板醤には小麦が使われていない。いーちゃんは小麦が食べられない。小麦は数多くの既製品に含まれ、多くの製品と同一レーンの工場で作られる。そもそも小麦に限らず麦類を避けている。彼は、商品を選んで買っているし、食べられるものを組み合わせてレパートリーを増やしている最中だ。
ここで、彼のインスタに登場した一見何の変哲もないラーメンが、実はこんにゃく麺と魚介・塩系だったことに気づくことができる。添えられた「ラーメン作った」というキャプションの、あんまりといえばあんまりなそっけなさにどこか誇らしげな感情を想像してしまうのは受け取る側の妄想だろうか。
香りが一段と華やいだ。熱エネルギーを受け取った香味野菜の戦働きのおかげだ。高橋は日本酒、水、隠し味を入れる、複雑さが高まるので。前回ケチャップを入れてそれもずいぶん好評だったが今日の高橋は定番のオイスターソースを少し入れた。それは最高のチョイスだった。
これを煮立てる。ぐつぐつと。アルコールを十分に飛ばすのだ。後にはうまみだけがのこる。その間に彼はキッチンチェアの上から単語帳を拾い上げた。指が、記憶を手繰るようにページを繰る。折り広げられた単語帳。受験生時代を彷彿とさせる。
当時の高橋は面白いことを探していたらしい。我々には、そのように振り返るより他ない。
「なんか面白いことないかな」
と、彼はことあるごとに言っていたのだから。言わなくなった時期は定かではない。少なくとも大学1年生が終わる時点ではまだ言っていた。高校・大学の授業に『それ』はなかったし、大学サークル関係者との仲にも、渋谷のクラブホールにも、それはなかったらしい。
彼の能力は同年代に比べて高い、それは間違いなかった。彼は難しい問題を探し回り、世の中の問題をよく見知ってしまっていた。与えられる問題は簡単で、解きようのない問題が蔓延っていてやるせない。だから、高橋は『面白いこと』を探していた。
しかし、いーちゃんはそんな彼を叱り飛ばす。
「自分を高めろよ。そんなこと気にすんな。先にやることがあるだろうが」
と。
水分量が十分に減った。
主役の豆腐を投入する頃合いである。なめらかな絹豆腐はするすると馴染んでいった。次の買い物は翌日の夕方のことになるが、あたかも常備するかのように絹豆腐をかごに入れることとなる。他人の冷蔵庫ながら補充にとどまらずもう完全に管理しているというべきだ。あの彼がそんなことをするようになったとは驚くべきことだが、そうしているのだ。
高橋はフライパンを弱火にして時々ゆすっている。その表情から見るにその出来に満足そうだ。ご飯をよそったりお昼の汁を温めなおしたり、やがて完成となるだろう。高橋は家主の背中に視線を向けた。一心不乱に勉強に打ち込んでいるところが見えた。「自分を高めろ」と他人に言うことができる人間が、怠惰であるものか。
高橋は顔を擦った。額から目蓋にかけて勢いよく。
そうしてぱっちりした目を戻すと彼女は彼の顔を見ていた。
ぱちくり。
いーちゃんは困り顔で言った。
「他にやることあるだろうがよ」
FIN