魔物襲来
アルバート達が来て1週間ほど経っただろうか。その日は森の奥で吸血蝙蝠の巣の駆除に殆どが駆り出されていた。宿営地組は、私と事務長と森で食料調達しているペトロとサンジュの合計4人だけだった。
私は天幕の掃除を済ませ、洗濯物を片付けていると、ペトロ達が両手に獲物を抱えて帰って来た。
「ウサギに雉、それに今日は白い狼だ!この毛皮は高く売れるぞ!」
「おおっ貴様たち良くやったぞ、その毛皮は王都で凄い値段で取引されるぞ!」
天幕から事務長が飛び出してきた。
ペトロとサンジュは得意満面だったが、私は何か嫌な予感がした。
「白い狼?」
「おう!見てみな!」
サンジュが背負っていた白い狼をどさっと下ろした。胸の真ん中に矢が刺さっているのが致命傷だろう。だが、何か違和感がある。顔が大きさの割に子供のような顔をしている。確かめようとその瞼を少し持ち上げると、毒々しい真っ赤な瞳があった。慌てて戻す。
「シェリル?」
「……ヤバいかもしれない」
「何が?」
「これただの白い狼じゃないと思う……」
フェンリルの子供じゃないの、コレ
まずい、まずい。
「森に返そう……」
返しても、許してもらえそうにないけど
その時、一帯が白い靄に覆われた。夏とは思えない程寒い。炉の火が消えた。草がパリパリパリと凍っていく。森からゆっくり巨大な白いそれがやって来た。重低音の唸り声とともに。
「ひええええぇっ」
「フェ、フェ、フェンリル???」
事務長はどうやら腰が抜けてる。ペトロは腰の剣を構えた。サンジュは弓をつがえようとするが、震えて狙いが定まらないようだ。
「す、すまぬ、子供は返す……」事務長が後ずさりながらもう息絶えているその白い狼と思っていたものを足でフェンリルの方に押す。だが、フェンリルの怒りに油を注いだだけに見えた。
パリパリと音をさせながら、事務長が凍っていく。事務長は叫び声をあげた。
「くそっ、やれっ、あいつを倒せぇっ」
「む、無理だろ、コレ」
ペトロが震えながら剣を振り上げた。サンジュが弓を放つ。
フェンリルはその矢の上を大きく跳び、一気に距離を詰めてきた。その大きな口が縦に大きく開き、中の牙がペトロに向かった。
「ペトロっ!」
私は左手を突き出した。氷には炎。フェンリルには効く筈だ。
左手の掌から炎が一直線にフェンリルに向かう。鋭い痛みが左手を襲うが、ペトロの命には代えられない。
空中のフェンリルに避ける術は無かった。
フェンリルは火だるまとなり、地面にどう、と転がり落ちた。
辺りの凍っていた草が一瞬で溶け、今度は燃え始める。
フェンリルは転がりながら炎を消そうとするが、そうはさせるか。追加の炎を叩き込む。ごう、と音を立てて炎がフェンリルを焼く。焦げた匂いがフェンリルと自分の左腕から漂う。私の左手は肘辺りまで真っ黒になっていた。痛みで汗が滝のように零れ落ちる。
「ペトロ、止めを刺して!」
呆然としていたペトロだが、はっと頭を一つ振って、火だるまのフェンリルの首にその剣を叩き込んだ。
フェンリルの首が落ちた。
「胸の中心を!魔核も刺し貫いて!」
ペトロは下っ端とはいえ流石騎士団に合格するだけはあり、見事に魔核を貫いた。そしてフェンリルは完全にその生命活動を終えた。
私はペトロが成し遂げるのを見てから、燃えている草に水を掛けて消火し、あらかた消えたのを確かめてから今度は左手に冷水を浴びせ、火傷の処理を始めたのだが、余りの痛みに立っていられずしゃがみ込んだ。
「シェリル!」
サンジュが駆け寄ってきた。
「ごめん、ごめん、俺が白い狼と間違えなければ……」
「ペトロ、盥、持って、来て……」
聞くや否やペトロが盥を取りに駆け出した。
片や意識を天国へ飛ばしていた事務長がようやく現世に戻ってきたようだ。
「し、白い狼では無かったじゃないか!お、お前のせいで、こ、殺されるところだったわっ、フェ、フェンリルの子供と間違えるなぞ言語道……」
「盥だ!どうしたらいい?」
ペトロが盥を置いてくれた。私は右手から魔力で水と氷を出して盥をいっぱいにする。そして真っ黒に焦げた左手を肘まで突っ込んだ。激しい痛みに襲われて、全身がこわばる。
「こ、この責任は取らせるぞっ、あ、あれ?」
フェンリルに軽く凍らされた事務長だが溶けていくにつれ、どうやらお漏らししていたらしいのが顕わになってきた。この匂いは、どうやらどちらも漏らしたらしい。慌てて立ち上がろうとし、再度尻餅をつき、今度は四つ這いから何とか立ち上がると、よろよろと河原の方角へおしりを突き出しながら消えていった。
「洗え、って言われたらどうしようかと思った」
ズキズキする腕と戦いながら、何とか笑みを浮かべようとする。ペトロは少し笑ってくれたが、サンジュの目から涙がボロボロ零れてきた。
「ごめん、シェリル、ごめん……僕がフェンリルの子供を射ったんだ……」
「サンジュ、俺だって同罪だ。全く気付かなかったんだから」
「この森にフェンリルがいるなんて情報全く無かったのは確かね」
気落ちしているサンジュにこれ以上言うのも躊躇われたが、教えておかないとこれからも危ない。
「サンジュ、ペトロ、私はまだ17だけど、この団に来てもう9年になる。だから、あなたたちより古参で、色々経験してる。自分を守るためにも魔物の勉強はもっとしなきゃいけない。今日なら、白い狼と思ったあの獣、瞳だけでなく白目の部分も真っ赤だった。フェンリルの特徴だと思う。顔もまだ成長しきっていないから子供だとも推定できる」
サンジュはうつむいた。
「怒ってるんじゃないからね。憶えておかないと、あなたたちが早死にしてしまう」
「……うん。ありがとう」
もう、素直な良い子なんだから。
「悪いけど、今日の料理は任せるから。水がいるようなら来て」
ペトロが唖然とした。
「あれだけ炎を使って、まだ魔力残ってるのか?」
ああ、そうか。普通はこれだけ使えば、魔力はもう枯渇してるのか。
「大丈夫。まだまだたっぷりあるよ」
ペトロが苦笑いした。
「ホントに規格外なんだな」
ペトロとサンジュがウサギや雉を捌き、スープを何とか作り上げたあたりで、吸血蝙蝠退治のメンツが帰って来た。黒焦げの塊がフェンリルだと聞いて、そんな馬鹿なと取り合わない声が聞こえる。
「フェンリルが来て、なぜお前らが無事なんだ。それはちょっとでかい狼さんだな」
「フェンリルでした!現れた時、そこらじゅうがパリパリ凍っていったんですって!」
「はぁ?フェンリルには確かに氷の吐息があるが、ならどうやって生き延びた?」
「シェリルが炎で焼いて、俺がとどめを……」
「ハッハッハッ、馬鹿も大概に……」
「ちょっと待て、詳しく聞かせろ」
団長が割って入った。
私は自分用の小さな天幕の中で盥に氷を足しながら左手を冷やし続けていた。左手は冷たすぎてジンジンする。なのに、体は熱を持って、呼吸も苦しくなってきた。
やばいな、コレ、左手腐るコースかな?アルバート治せるかな?こんなに酷いと無理かも……痛みだけでも取ってくれると嬉しいけど……。
その時、天幕の外から声が掛かった。
「シェリル、入るよ」
「ま、待って」
アルバートの声だった。助かった、けど、今私が上半身に身に着けているのは下着だけだ。
慌てて羽織るものに右手を伸ばす。
「悪い、待てない」
入り口を捲り、アルバートが入って来た。
「ちょ、待ってって言ってるのに」
下着姿を見られて顔が一気に赤くなった気がする。でも、実際のところ、元から発熱していて真っ赤だったわ。
アルバートは私の左腕を見ると、険しい表情をした。
「無茶したね」
そう言うと、私の左手をそっと氷水の盥から持ち上げた。本当にそっと。でも脳天まで痛みが突き抜けた。
「これは加減出来ないな」
何の加減、と言葉に出す間もなく、アルバートの手から優しい光が溢れて、私の左手を包み込む。体の芯から快感が突き抜けてきた。体中がふわりと浮くような感覚。意識もぼうっとしてきた。
「火傷は治せるけど、感染は君が自分で頑張るしかない。しばらく安静だよ」
睡魔が襲ってきて、目が開けられない。
抱きかかえられたような気がする。
そっと寝具に降ろされて、やさしく毛布を掛けてもらったみたい。
そして私は深い眠りに落ちた。
***
「シェリルのやつ、しかし、フェンリルを倒すか」
団長と古参の騎士たちが黒焦げの死体の周りを囲んでいた。
「誰か、フェンリルを倒せるやつがいるか?」
「無茶言わんでください」
「さすがは腐っても王女」
「口を慎め」
「左肘まで犠牲にしたとか?暫く雑用はペトロ達にやらせるとしよう」
「暫くで済むかな?戻らないのではないか?」
「あれで炎耐性さえあればなぁ」
「馬鹿言え。炎耐性があったら、こんな所に居るものか。王城で王都守護に当たらされてるさ」
「しかし何故ここにフェンリルが?もっと北の森に生息していたのでは?」
「最近魔物の勢力図に変化がありすぎる」
「何かが起こっているのですかね?」
団長は唸った。
「フェンリルが住処を追われたのだろうか」
「何に?フェンリルを追い払えると言うとドラゴンですか?」
皆黙り込んでしまった。
「王城への報告案件だな」
団長が苦々しく吐き捨てた。