十話
イーライの目的は、森が沈黙を保つ理由ではなく、ミアが月の乙女である確証を握ることに変わっていた。
森の中にぽつんと建つ緑の小さな家。白い壁に取り付けられた木の扉をノックする。ガシャンと家の中から、音がした。しばしの静寂の後、足音が聞こえ、そっと扉が開いた。
イーライはとびきりの笑顔を浮かべた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
笑顔のイーライとは逆に、扉を開けたミアは家の前に立つイーライを見て、眉をひそめる。それから背後のトマスに目をやり小さくため息をつく。
「トマスさんが狩りにでるというのでこちらまで案内していただきました。いつも村までミアさんに迎えに来ていただいては申し訳ないですからね」
五日目の朝。イーライは早朝からトマスの家を訪れ、狩りに出る前にミアの家までの案内を頼んだのだ。ミアの周辺を探るためである。
すでに成果を一つ得た。扉についた引っかき傷。鋭い爪は大型の獣のものだ。まず灰銀狼のものとみて間違いないだろう。大半は古い傷だ。だが古い傷の上につい最近ついたであろうものがあった。
トマスに礼を言い、二人になるとイーライは切り出した。
「家の周りに狼が出るのですか?」
ミアは答えず、訝しげにイーライを見やる。
「扉に爪痕があります」
かすかにミアが息をのんだのをイーライは見逃さなかった。
「これなどまだ新しい」
イーライは真新しい傷を示す。
「さぞ、恐ろしい思いをされたことでしょう。こちらに滞在させていただければ、お護りすることもできるかと思いますが」
誇示するように剣の柄に手をかけた。
「……大丈夫です。鍵をかければ家の中までは入ってきませんから。今日は西のほうにいってみましょう」
ミアは話を変えるとすぐさま歩き出す。その背中から動揺の気配を感じ取り、イーライはほくそ笑んだ。
(尻尾を出すのは時間の問題だな)
その日、イーライはそれ以上の行動は起こさなかった。無言で圧力をかける作戦だ。ミアが月の乙女であり、それを隠しているのなら、勘付かれたのかどうか悩むことになる。
「今日も成果なしですね」
一日の探索を終え、森の外れに向かう途中、珍しくミアからそう話しかけてきた。
「そうでもありませんよ」
たった今、手応えを掴んだ。
「……そうですか?」
「ええ」
イーライは微笑みながら考える。この先が問題だ。ミアの信用を得つつ、外界で乙女が暮らす難しさ、神殿で暮らす利点を伝えなくてはならない。
「この森は豊かですね」
「……そうですね」
「昔、まだ神殿の権威が全ての大陸に行き渡らなかったころ、乙女たちは森や山や険しい谷に隠れ住んだそうです」
――どうしてお家に帰っちゃいけないの?
昔、まだ聖騎士になりたてのころ、神殿の成り立ちやこれまでの歴史について、入殿したばかりの乙女の問いにうまく答えられなかったことがあった。あどけない乙女の涙にイーライは柄にもなく心を痛めた。そしてそれ以上に、おろおろとするばかりの自分の格好悪さが許せなかった。それからだ。イーライが神殿の蔵書を読み漁るようになったのは。
「ですがどれほど人との接触を断とうが乙女の悲劇は終わらなかった。ソーストの乙女の逸話はご存知ですか?」
「いいえ」
「昔、ソーストに一人の月の乙女がいました。彼女は力を隠し静かに森で暮らしていた。しかしある時、動物たちが彼女に囁きました。森の中に魔物の巣ができた、と。乙女は悩みました。なぜなら森のそばには村がある。いずれ被害がでるのは目に見えていた。だが彼女は月の乙女であると露見することを恐れ迷いました。当時、乙女は権力者に囲われ搾取されるだけの存在だったからです」
乙女がいつから存在するのか、そのはっきりとした起源はわからない。だが、神殿が今の体制を獲得する以前、乙女にとって暗黒とも言える時代があったのだ。
「迷う間にとうとう悲劇が起こってしまった。村の子供が幾人か犠牲になりました。後悔に苛まれた乙女は魔物の巣のありかを村人に告げます。村人は乙女のおかげでそれ以上の被害を免れた。しかし、子供を無くした彼らはどうしてもっと早く教えてくれなかったのかと、乙女を恨んだのです。そして……乙女が森にいるのを知りながら森に火を放ちました」
「……」
無言になったミアに視線はやらない。代わりにイーライは空を見上げた。
「ソーストの乙女の悲劇は、このユクシ大陸で起こったことです。けれどユクシの人々の殆どはこの話を知らない。自分たちの罪を隠したのでしょう。悲しいことですが、乙女が護られる今でも人々の在りようは、本質的なところでは変わらないのかもしれません」
ミアは無言のままだった。
(怖がらせすぎたか?)
脅すような真似になってしまったが、事実である。ちらりとミアに視線を落とすと彼女は俯いていた。クセのない赤い髪が顔を隠しており、ミアがどんな表情を浮かべているかは見えない。ややして、ミアは俯いたまま「もし、私が……」と口を開いた。
「私が月の乙女なら……動物たちを総動員して、魔物の巣を潰しますね。全ての動物を使って、魔物を根絶させます。だって森に住んでいる以上自分の身も危うくなりますから」
今度はイーライが無言になる番だった。
乙女は心優しいものだ。声が聞こえ、対話が可能になると、それらを食べられなくなる。無理に食べさせれば病むほどである。その心を通わせる相手を魔物退治の犠牲にする?
「そう……ですか。それは頼もしい」
イーライはそう言って笑うしかなかった。