第78話 歩と春海 (4)
ほわほわとした足取りでカウンターに戻ると、洗い物を引き継いでいた花江の隣に並ぶ。
「あ、花ちゃん。
代わるよ」
「今日まではきちんと休みなさい。
春海に言われたでしょう?」
「……」
「明日から手伝ってくれれば良いから」
尚も渋る様に動かないでいると、花江が困ったような笑みを向けてきた。
「歩、顔真っ赤よ。
熱があるんじゃない?」
「!?」
からかい口調のそれに慌てて表情を引き締めた歩が、花江に隠れるように奥に駆け込んでいく。その背中を見送った花江が小さく微笑んで視線を再びシンクに戻した。
◇
「これをお店においてもらえませんか?」
花江に頼み事があると連絡を受けた日の夕方『HANA』を訪ねてきた郁恵が持ってきたのは高校の文化祭のポスターとパンフレット。文化祭の実行委員である郁恵は、告知も兼ねて町内のあちこちにポスターをお願いしているらしい。
「ええ、良いわよ。
歩、ポスター貼ってくれる?」
「はい」
すんなりと受け取ってもらえた事にほっとした様子の郁恵が、入り口に一番近い椅子にちょこんと座りながら、店内の壁にポスターを貼る歩の動作を見守る。
「パンフレットはレジの横で良いかしら」
「あ、はい! ありがとうございます!」
「これでオッケーと……郁恵ちゃん、パンフレット見て良い?」
「はい、どうぞ!」
郁恵の隣に腰かけると体育館で行われるステージの内容と出店の一覧が賑やかに書かれているパンフレットを開く。
歩の通っていた高校は学業優先の学校で、文化祭や体育祭の行事はお飾り程度でしかなく、体育祭は午前中だけだったし、文化祭はクラス展示とステージ発表だけだったような気がする。イベントに力を入れていることが伝わるパンフレットをまじまじと眺めるときらきらした表情の郁恵が嬉しそうに説明する。
「夏休みからどのクラスも準備していたんですよ。特にフード系のクラスは学校一を決めるグランプリもあるんで、優勝目指して気合いが入っているんですよ」
「そうなんだ。
あ、これって二日間もあるの?」
「はい。
金曜日は校内だけで、土曜日は一般の人たちにも解放してるんです。歩さんもよかったら観に来て下さい」
期日を確認すると来週末の開催らしく、仕事自体は休みなので問題はない。春海と出かけるという予定は入っているものの、どこに行くか決めかねていた現状では郁恵の誘いは渡りに船といえる。しかし……
「もしかして予定入ってました?
あの、都合が悪いなら、」
「あ、ううん。その日は友達と遊びにいこうと思ってたんだけど、まだ行き先が決まってなくて……とりあえず相手に確認取ってから決めるつもりだったから丁度良いかなって思ってたとこ」
『高校』という場所に抵抗はあるものの、自分の高校ではないし折角誘ってくれた郁恵の為にも客として行くのなら大丈夫だろう。すぐに返事が出来なかった歩の態度を不安そうに見守っていた郁恵にそう笑顔で返すと、安心したようにパンフレットの見取り図を指差した。
「本当ですか! じゃあ、もし来る時はうちのクラスのお店に寄ってくださいね! 校舎側のこの場所にある『西や』ってお店です」
「郁恵ちゃんのクラスは何を売るの?」
「ふふふ、聞いてください。
何と、豚汁です!」
「えっ、豚汁?」
およそ高校生とは思えないメニューに目を丸くすると、郁恵が説明する。
「毎年文化祭の時期は寒くて、温まる物が売れるんですよ。皆で色々話し合って、豚汁にしたんです。ほら、ポップコーンとか、ポテトとかあるけど、昼食らしい食べ物って他にないでしょう?
昨日学校で試食したけど、ボリュームも味もすっごく良かったんですよ!
是非食べに来てくださいね!」
「うん、それじゃあ食べに行くね」
「やった!
待ってますね」
郁恵の喜びように歩も自然と笑みがこぼれる。その後も文化祭の裏話や高校生活の話に自分との高校生活のギャップを感じながら、郁恵との会話を楽しんだ。
◇
「良かったじゃない、文化祭に誘われるなんて」
「うん、なんだか楽しみになってきちゃった」
郁恵を見送った後、カウンターの奥で里芋の皮を剥いていた花江が顔を上げる。自分のエプロンを持って花江の隣に立った歩も、ボウル一杯に盛られた里芋の山の一つを取り出すと皮をペティナイフで剥いていく。まだ握り馴れないペティナイフは切れ味も抜群で、油断するとすぐ指を切ってしまいそうだ。
お互い顔を合わせないまま紡ぐ会話はいつもより素直に本音が出せる、そんな雰囲気に花江が明るい声を出した。
「約束してた友達って、春海?」
「あ、……うん」
「そう。それならますます楽しみね」
花江の友人である春海を奪ってしまったような罪悪感が心の片隅にあり、最近春海の話題を振るのはいつも花江からになっていた歩にとって、花江が当たり前の様に喜んでくれることに内心ほっとする。
「でも、春海さん行ってくれるかなぁ……」
断られるかもしれない不安に小さくなってしまった声を励ますように、花江が笑う。
「大丈夫よ。
春海もお祭りとか絶対好きそうだもの」
「……ふふ、確かに好きそうだね」
「それに、元々一緒に出かける約束してたのなら断るわけないじゃない。誘ってみなさい」
「うん」
花江に背中を押してもらった心強さに、ようやく歩の声に明るさが戻る。一つ剥き終わり別のボウルに移すと、新たな里芋を取った。
「郁恵ちゃんの高校は、随分楽しそうな学校なのね」
「そうだね……」
何気なく相づちをうちながら手の中に意識を集中していると、ずっと心の奥に閉まっていた記憶が少しだけ漏れ出してくる。
自転車で通った坂道、硬い机と椅子、黒板に書かれた言葉──
「………ねぇ、花ちゃん」
「なに?」
「私も、……あんな学校に行ったら良かったのかな」
「どうかしらね」
優しい相づちに何も言えないまま、ただ黙ってペティナイフを動かし続けた。