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第75話 歩と春海 (1)

 雲が広がりながらも晴れでもなく雨が降るわけでもないそんな寒空の昼下がり、カランと鳴ったベルの勢いに驚いたように花江が顔を上げる。


「あら、いらっしゃい」

「花江さーん!

 おひさー!」


 テンション高く現れた春海に苦笑しながらも「久しぶりね」と椅子を勧める声も明るい。ぐるりと店内を見回した春海が花江一人だけであることに気がついたらしく、お冷やのコップから温かいお茶に変わった湯飲みを受け取りながら訊ねた。


「歩は?」

「用事で出ているの。

 そんなに時間はかからないと思うわ」

「なーんだ」


 いかにも残念そうな春海を少し驚いたように見たものの、そのまま調理を始める。


「仕事忙しかったの?」

「マジで忙しかった! って言うか、正確には現在進行形で忙しいの。なんだか思ってもみない事になっちゃって。

 あ、そうそう、忘れないうちに聞いとかないと」

「?」

「来週の金曜日の夜って、ここ予約入ってる?」

「来週の金曜日は……空いてるわよ」

「あ~良かった! それじゃあ予約お願いして良いかしら。

 時間は18時半から、人数がえっと……今のところは十五人、」

「春海、ちょっと待って」


 ペンとメモ帳を取り出した花江が丁寧に文字を綴っていくのを見ながら必要事項を伝え、確認するために花江がメモを復唱した後カレンダーに貼り付けている後ろ姿に声を掛けた。


「もしかすると、これから月1くらいの頻度でちょくちょく予約入れるかもしれないけど、大丈夫?」

「早めに言ってくれればうちは全然構わないけど。

 もしかして仕事がらみ?」

「そう。

 今度のイベントで色々な職種の人たちにも協力をもらわないといけなくて、顔合わせと打ち合わせも兼ねて連絡会を発足するの。それで、私としてはこの機会に貸し切りも出来て、事務所から近くて、料理が美味しい『HANA』の素晴らしさを知ってもらおうと思っているんだけど」

「あら、それはありがとうございます。

 それにしても、春海はあまり嬉しくなさそうね」


 カウンターに肘をついて大袈裟にため息をついていた春海ががばっと起き上がった。


「だってさぁ、私、責任者になっちゃって皆を取りまとめなくちゃいけないのよ~! 折角美味しいご飯とお酒があるのは嬉しいんだけど、絶対ゆっくり楽しめないって分かってるのよ。

 それって悲しすぎない?」

「それは凄いじゃない!

 じゃあ腕によりをかけて作らなきゃね」

「あ~何だろう!

 嬉しいのに心から喜べないこの複雑な感情は~」


 がっくりと項垂れる春海を笑いながら「お待ちどうさま」と料理の盛られた皿を差し出す。


「わ! 今日はミックスフライかぁ。

 いただきまーす」

「はい、どうぞ」


 嬉々として箸を取る春海の姿に目を細めながら静かに笑みを浮かべると、食事の邪魔をしないよう目の前の鍋に火を入れた。


 ◇


「あれ? 来週の土曜日って『HANA』休みなのね」


 満腹になったお腹を擦りながら、店内に貼られていた臨時休業の文字に春海が目を丸くする。


「ええ、その日は私の用事があるの」

「ふーん、じゃあ連休なんだ~。

 あ、もしかして泊まりがけでデートとか?」

「デートする相手がいるならとっくの昔に春海にのろけてるわよ。

 残念ながらその日の予定は講習会」

「あはは、それは失礼しました」

「歩一人にお店を任せるわけにもいかないしね」

「それもそうね」


 花江の言葉に同意したものの、料理上手の歩なら案外一人でも出来るように思えてしまう。


「……花江さん」

「何?」

「歩って来週末何か予定が入ってるかしら」

「歩?

 無いと思うけど、聞いてみましょうか」

「あ、いいの。

 戻って来た時にでも確認してみるから。

 それで、空いてたらちょっと借りてくわね」

「借りるって……」


 春海の言葉に笑った花江に困ったように頭を掻く。


「ごめんごめん。

 物とかじゃなくて、保護者的な確認の意味合いで言ったつもりなんだけど」

「分かってるわよ。

 それで、何か用事だったの?」

「用事と言われれば用事なんだけど。この間二人で出掛けたのが楽しかったからまた誘おうかと思ってさぁ」

「そう。

 歩が聞いたらきっと喜ぶわね」


 自分の事のように嬉しそうな顔をする花江が歩の帰りを待ちわびるように、ドアの外に目を向ける。それにつられるように春海も急に冬の気配が強まった寒空と強く吹く風の光景を何となく眺める。



『私、中途半端だからそういうのはいいんです』


 諦めたように笑った歩の姿が不意に脳裏によみがえった。



「ねぇ、花江さん。

 歩ってどうしてここで働きだしたの?」


「え?」


「歩ってお菓子作るのも料理するのも上手じゃない?」

「……ええ」

「だからこの間二人で出掛けたときに、調理師免許とか取ってみたら良いんじゃないって言ったら、自分は中途半端だから要らないって答えたのが妙に気になってさぁ」

「……」

「前々から思ってたんだけど、やけに自己評価が低いっていうか、それにあまり出歩いたこともないみたいだったし、何か難しい事情でもあるのかなって思って」



「…………春海がそれを知ってどうするの?」


 花江の口調は普段と変わらないものの、静かな眼差しは春海の心うちを探るように向けられている。その真剣な眼差しに少し驚くも何となく姿勢を正して向き合った。


「どうするって……別にどうもしないわよ?

 私、歩ともっと仲良くなりたいって思ってるから聞いてみただけなんだけど」


 その言葉に黙ったままの花江がふわりと微笑む。困ったように哀しそうに笑うその顔がどこか見覚えのある表情で、あの時は誰と何を話していたときだったろうか。


「ごめんなさいね。

 私からは言えないわ」


 花江の言葉の裏を返せば歩の過去に何かがあったということで、どうやらあまり良い出来事ではないらしい。何となく分かっていただけにすんなりと引き下がることにした。


「そうよね。

 ごめんなさい、答えづらい事聞いちゃって」

「いいのよ。

 ああ、でも歩がここに来たきっかけなら話せるわよ。

 私が無理矢理連れてきたの」

「へ?

 冗談でしょう?」

「本当よ」


 くすくすと笑いながらも否定しなかった花江を驚きながら見つめていた。

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