第74話 おおかみ町大根やぐら (5)
「帰りは送っていくから」と譲らない春海に連れられて車を降り深夜のコンビニに入ると、店内の明るさに目を細める。急ぎすぎてポケットにスマホしか入っていない歩は何をするでもなく、奥の陳列棚に向かう春海の後ろ姿を見送りながら、店内を流れる音楽にぼんやり耳を傾けていた。
「歩」
ちょいちょいと手招きされた先は温かい飲み物が並んだ陳列棚で、春海の手にはお茶のボトルが握られていた。
「何飲む?」
「あの、私は別に」
「決めないとココアにするわよ」
「……じゃあ、お茶で」
恐ろしい選択肢を迫られて春海と同じ物を選ぶと、二本持った春海がレジに向かう。
「ありがとうございます」
「んーん」
自動ドアを一歩踏み出すと強い風が身体に当たり、その冷たさに鳥肌が立つ。差し入れの事ばかりしか頭になかったせいで薄着で来てしまったことを今になって後悔しながらそっと腕を擦ると、そんな様子に気づいたらしい春海が改めて歩の全身に目を向けた。
「歩、そんな薄着で来たの!?
寒かったでしょう」
「あ、走ってきたんで大丈夫です」
「何言ってるのよ! 風邪引いたら大変じゃない」
慌てて押し込めるように歩を助手席に乗せた春海が、車のヒーターを全開にする。目の前のコンビニのおかげで車内はライトを照らさなくてもそれなりに明るい。勢い良く噴き出される温風に身体を寄せていると、運転席から身をよじってがさごそとバックを探っていた春海が「これ使って」と厚手のストールを差し出してきた。
「仕事してるときに重宝してるのよ。
持ってきてて丁度良かったわ。広げて肩に掛けてみて」
「えっと、こうですか?」
両手に持ったストールは思ったより大きくて、狭い車内で四苦八苦しながら背中に回していると、ずり落ちそうになる背中側を春海が引き上げてくれる。その指先とストールの柔らかな肌触り、身体を包むように広がる甘い残り香に思わずごくりと喉が鳴った。
「ね、暖かいでしょう?」
「は、い」
自分の不純さを隠すようにそっと目を逸らしながら頷くと、満足げな表情の春海からお茶のボトルと先程買ったらしい肉まんの包みを手渡された。
「さあ、一緒にカロリー摂取するの付き合ってもらうわよ」
「ふふふ」
春海らしい物言いについ笑って受けとると、運転席でランチバックを開いた春海が目を輝かせた。
「あ、炊き込みご飯と卵焼き。
まさかあの短時間で作ったの?」
「いえ、たまたまです」
冷凍庫に常備してあることを話すと、ほっとした様子の春海が嬉しそうにおにぎりを頬張った。
「美味しい」
「…………良かったです」
照れくささが混じってやっとのことで一言だけ返すと、誤魔化す様にお茶を口に運ぶ。
ダッシュボードの時計はとっくに深夜を越えていて、普段なら起きているはずのない時間を示しているのに眠気は訪れそうになくこのまま朝まで過ごせそうなくらいだ。
深夜の狭い空間に春海と二人きりという状況は日常とはかけ離れすぎていて、もしかしたら夢を見ているのではないかとさえ思ってしまう。
不思議と心は凪いでいて沈黙が気にならない。何となく途切れた会話を続けずにフル回転するヒーターの排気音に耳を傾けながら、窓ガラスの向こうの暗闇に眼を移した。
「もしかして、眠い?」
そっと聞こえた声に振り向くと、不安そうに春海が見ていた。
「全然大丈夫ですよ。
ゆっくり食べてもらいたかったから黙ってただけです」
「そっか。
ちゃんと美味しく頂いたから。あ、これ洗って返すわね」
卵焼きを入れていた容器を見せた春海がランチバックごと自分の鞄に入れる。
「今渡してもらっても良いですよ」
「ううん、ちゃんと返しに行くから。
『HANA』に行く理由になるしね。ごちそうさまでした」
嬉しそうに笑った春海がサイドブレーキを下ろしてギアを入れる。どうやらこのまま解散になるらしい事に寂しさを感じながら、黙ってシートベルトを手に取った。
◇
ひっそりと静まり返った住宅街に見えてきた『HANA』は奥の一部屋だけに明かりが点ったままで、部屋の電気を消し忘れていた事に今更ながら気がついた。静かに駐車場に入った車が辺りに気を使うようにヘッドライトの明かりを小さくする。
「ありがとうございました。
おやすみなさい」
羽織っていたストールを丁寧に畳んで渡そうとすると、両手をハンドルに置いたままの春海が呼び止めた。
「ねぇ、歩」
「はい?」
「あたしが事務所にいるってどうして分かったの?」
「あぁ、それはですね……」
心底不思議そうな表情を浮かべる春海に説明しようと思ったものの、考えを改めた。
「内緒です」
「……は? な、何それ!?」
意趣返しの言葉に一瞬ぽかんとした春海が慌てて詰め寄る。
「だって、春海さんも私が訊ねたときいつも教えてくれないじゃないですか。だから内緒です」
「何その言い方。気になって眠れないじゃない!」
「それなら是非気にしてください」
「はぁ? 信じられない! 歩が意地悪だー」
次第に可笑しくなって二人で騒ぎ出すと、深夜であることに気がついて慌てて口を押さえる。そんな些細なことさえも楽しくなってくすくすと笑い合った。
「それじゃあそろそろ帰りますね」
寂しさを吹き飛ばしてくれた先程のやり取りのおかげか、別れの言葉は案外するりと口から出た。
「ん。
近いうちに顔出すから」
「はい、楽しみにしてます。
おやすみなさい」
「おやすみ」
春海に手を振って見送ると、強い風に身体が震える。急ぎ足で家に駆け込みながらいつになく心は満たされた気分になっていた。
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