第73話 おおかみ町大根やぐら (4)
明かりのない中学校の正門に飛び込むと、入口の階段近くに座っていた人影がゆっくりと動いた。
「……本当に来たんだ」
はあはあと肩で息をする歩の耳に呆れたような声が届く。事務所入口に備え付けられた明かりはごく弱い光を放っているのみで、階段から一歩離れてしまえば黒いシルエットしか見えない。それでも久しぶりに聞く春海の声がどこか嬉しそうに聞こえてしまったのは気のせいだろうか。
「そんなに急いで来なくても良かったのに」
「待ってもらったのに、そういう訳には、いきませんからっ、」
ようやく整った呼吸に顔を上げる。暗くてその表情ははっきり分からないもののどうやら歩の言葉に笑ったらしい。なるべく揺らさないようにと腕に抱え込んで来たランチバックの底に手を当てて、まだ冷めてないことを確認した。
「最近忙しいって聞いてたんで……これ、差し入れです。
良かったら食べてください」
「え……?」
炊き込みご飯のおにぎりと卵焼きの入ったバックを両手で受け取った春海が「温かい」と呟くのが聞こえた。
「一応温めてきたので。
あ、でもこんな時間じゃ食べないですよね。明日の朝にでも、」
「歩」
夜食を摂るにしては遅すぎる時間に渡すのなら温めなくても良かったのではと早計過ぎた自分の行動を後悔していると、春海が途中で言葉を遮った。
「!?」
歩の左肩に身体を預けてきた春海に驚きすぎて、言葉を失う。春海の頭が歩の左肩に押し付けるように触れているせいで、身体中の熱が一気に上がった。
「はる、み、さん?」
理解不能な春海の行動にその場で立ち尽くしたまま、からからになった声を何とか絞り出す。
「……あたし、色々あって……何て言うか……今、全然余裕なくてさぁ。
……だから、もう少しこのままで良いかな」
俯いたまま明るい声で告げられた言葉に真っ白だった頭が意識を取り戻した。身体の強ばりを緩めると、恐る恐る視線を下に動かす。
何かあったんですか?
大丈夫ですか?
……泣いてるんですか?
微動だにしない春海の背中に幾つもの言葉が浮かぶものの、何一つ口に出せない。腕を上げればその身体に触れることも出来るのに、下ろしたままの両腕さえも動かせずにいた。
「春海さん」
「……ん?」
「私に出来ること、何かありますか?」
長い長い沈黙の後、恐る恐る発した言葉に返答はなかったものの、しばらくして身体に小刻みな振動が伝わってくる。
「ど、どうして笑うんですか!!」
「だって、いかにも歩らしくてさぁ」
「え、何がですか?」
「そういうところ」
「?」
身体を起こした春海に戸惑いながら詰め寄ると、先程の態度が嘘だったかのようにますます笑みを深める。余程可笑しかったのか指先で何度も目尻を拭った春海を、少しふて腐れながらそれでも見守った。
「ありがと。
歩のおかげで元気出た」
「…………それなら、別に良いですけど」
たった一言で急上昇した機嫌を悟られまいとわざと不機嫌な表情を見せる。そんな歩の態度を見抜いているように春海が笑いながら腕の中のランチバックを軽く持ち上げた。
「折角だから今貰おうかな。
歩、もう少し付き合ってくれる?」