第72話 おおかみ町大根やぐら (3)
「春海さん今日も来なかったな……」
ベッドの上でスマホを弄りながら飾ってあるストラップを見る。やっときちんと向き合えるようになった途端離れてしまった春海に寂しさを募らせるもどうやら多忙を極めているらしく、仕事の邪魔をするわけにもいかないと連絡すら取らずにいる。
明日こそは来るかもしれない──
そう思いながらもう何日過ぎただろう。
ジョギングに行ってもタイミングが悪いのか一度も見かけずしまいで、最近は徒歩三分の距離さえやけに遠く思えてしまう。
指先にある画面はこの間の春海との簡単なやり取りから止まったままで、『HANA』にすら顔を出せない春海が連絡をくれる筈もないことは分かっているのに、それでも期待してしまう気持ちが恨めしい。
声が聞きたい。顔が見たい。話がしたい。
どんなきっかけでも良いから春海との接点が欲しくて、ベッドの直ぐ上にある時計を確認した。
現在の時刻 22:33。
メッセージとはいえ連絡を送るには躊躇う時間に、春海は起きているだろうか?
トーク画面を開きながら、迷惑にならないよう返信を求めない無難なメッセージを捻り出した頃には22:45となっていてぎょっとする。慌てて画面を閉じると頭まで布団に潜り込み、身体を丸めて無理矢理目を閉じた。
後悔と恥ずかしさにまみれた現実を寝ることで逃避しようとしていた矢先、聞き慣れない着信音が歩を叩き起こし文字通り飛び上がる。
「!? な、何!?」
画面に表示されていた『鳥居春海』の名前に寝ていたところを起こしてしまったのかと思うと、身体から血の気が引いた。それでもわざわざ掛けてくれた電話を待たせる訳にもいかず、恐る恐る通話に繋げる。
「も、もしもしっ」
緊張の為か変に上擦った声になった第一声に数秒沈黙があった後、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
『ごめんごめん。
もしかして寝てた?』
「いえ!」
笑いを含んだ電話の向こう側はどうやら怒ってはいないらしく、ほっとするとスマホを耳に当て直した。
「あの、こんな時間に連絡入れてごめんなさい。
春海さんこそ寝てたんじゃないですか?」
『ううん、全然』
短い返答ながらも楽しげな声のトーンからして本当に寝起きではないことが分かり、安心すると自然と口許が緩んだ。話したい事はたくさんあるものの全て頭から吹き飛んでしまったようで会話が続かない。電話の向こうの春海も疲れているのか口数が少ないままで家の前を通った車の甲高いエンジン音だけがやけに耳についた。
「お仕事、忙しいんですか?」
『あぁ、うん。
『HANA』にも全然行ってないもんね。もう少ししたら行けると思う』
「無理しないで下さいね」
『ん。
ありがと』
ぽつりぽつりしか続かない会話は当たり障りのないもので気の利いた言葉さえも思いつかず、直ぐに終わりを迎えてしまう。
声が聞けただけでも嬉しいはずなのに電話の向こうの春海に会いたくて仕方がない。それでも自分の我が儘で迷惑を掛けたくなくて、スマホを持った左手を握りしめる。
「春海さん、わざわざ電話ありがとうございました」
途中、耳元から聞こえてきた車のエンジン音に会話が遮られ、その聞き覚えのある音に思わず耳を疑った。
『ごめん、歩。
車が煩くてちょっと聞き取れなかったの。今、何て言ってた?』
歩の脳裏に『春海さん、最近仕事詰めでろくに食事も摂ってないっぽいんだよなぁ』と先日訪れた勇太の言葉がよみがえる。
「春海さん、もしかしてまだお仕事中でしたか」
『え!? いや……終わってるけど……』
「今、事務所ですよね」
『!? どうしたの、急に?』
疑問というよりは確認に近い歩の声に電話の向こうで春海が戸惑いながら否定するものの、明らかに狼狽えた声を上げる。その口調と23:08という数字に不安を覚えた。
「今からそっちに行って良いですか?」
『今からって……駄目よ、こんな時間じゃない!』
「五分だけ時間を下さい」
『ちょっ、ちょっと歩!』
時間を確認したらしい春海が非難するように声を上げるのを聞き流し、ベッドから飛び降りた。