第68話 HANAの昼下がり (3)
自分の変化というものは意外と気づきにくいもので、他人から指摘されて初めて自覚することもある。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
しわしわの手から差し出された五百円玉を受け取ると、調理中の花江が顔を上げる。
「いつもありがとう、ミネさん」
「またね、花江ちゃん」
花江が声を掛けたのは『HANA』の開店当初から通い続けている常連で、花江を唯一『ちゃん』づけで呼ぶ人物だ。御年九十歳の彼女は膝を痛めてから来店する頻度は減ったものの、歩を孫のように可愛がってくれる人物でもあり、『HANA』の二人にとっては大切なお客様だ。
会計の終わったミネを見守るように歩が寄り添い、一足先にドアを開いて待つ。
「おばあちゃん、そこの段差に気をつけてね。
ゆっくりで良いからね」
「えぇ、えぇ。
ありがとう、歩ちゃん」
「本当に送っていかなくて良いの?
遠慮しなくて良いんだよ」
「今日はトミさんところに行くついでがあるんで大丈夫よ。
たまには身体を動かさないとねぇ」
「そうなんだ。
楽しんできてね」
ゆっくりと杖をつきながら外に出ると、ドアを支えたままの歩の手にポケットから出した五百円玉を握らせる。
「歩ちゃん、これでお菓子でも買いなさい」
「ありがとう」
「そういえば、今日は随分元気になってたねぇ。何か良いことあったかい?」
「んーそうかな?
いつもと変わらないと思うけど……」
「そうかい。じゃあ、またねぇ」
「うん、バイバイ」
『HANA』を離れるまで見送った歩がドアを閉め、店内に戻る。手の平の硬貨を一瞥すると、そっとエプロンのポケットに入れた。
「花ちゃん、おばあちゃんにまた貰ったからお礼言っててね」
「ええ、分かったわ」
そのやり取りを見ていた勇太が、話題にして良いらしいと判断したらしく、早速口を開く。
「歩、今のばーちゃんに小遣いもらってんのか?」
「はい。
最初のうちは遠慮してたんですけど、一度断ったらすごくがっかりされたんで、それ以来受けとるようにしてるんです」
少し困ったように笑いながらカウンター奥に置かれた貯金箱に五百円玉をそっと落とす。ずっしりと重い缶はその容量にそろそろゆとりがなさそうだ。
「お孫さんも遠くに住んでるうえに、皆大きくなっちゃって可愛がる相手がいないらしいのよ」
「あ~それで。
花江さんを『花江ちゃん』呼びだものね。危うく吹き出しそうになったわ」
「仕方ないでしょう。
お孫さんっていっても私くらいの年齢らしいから」
流石に恥ずかしいらしく目を合わさないまま事情を打ち明ける花江の姿に春海がくすくすと笑う。
「ふーん、じゃあ歩はひ孫か。
確かに歩ならぴったりだな」
「勇太さん、どういう意味ですか!」
「だって、歩はお子さまだろ」
「子供じゃないって何度も言いましたよね!」
「良いじゃねーか、困るもんじゃないし」
「私は困ってるんです!」
ここ最近増えた勇太の歩弄りにむきになって言い返すと、花江と春海が笑いだした。
◇
『元気になったねぇ』
食器にスポンジを擦り付けながら先程のミネの言葉を思い出す。
常連の方々から同じような言葉を何度か掛けられたが、自分ではその変化を全く分からない。以前、郁恵に『雰囲気が変わった』と言われたが、あの時は髪を切った直後だったからで今とは状況が違うだろう。
花江に訊ねるのも恥ずかしくて聞けずにいるが、良い方に変わっていけるならそれに越したことはなくて、カウンターの春海の様子をそっと伺う。楽しそうに食事をしている姿を見て小さく口元を緩めると再びシンクに視線を戻した。
「こんにちは。
あの、まだランチやってますか?」
カランと鳴ったベルに顔を上げると、二人組の女性が顔を覗かせている。体感的にはそろそろ終了時間だが、時計を確認するより早く花江が笑顔を見せ、歩が出迎えに向かった。
「ええ、全然大丈夫ですよ」
「いらっしゃいませ」
その声に安心したらしく中に入ってきた女性の一人が店内に視線を向けた途端、目を丸くした。