第236話 繋がる、重なる (8)
打ち身や傷は残っているものの、翌日には退院の許可が出た。スピードがそれほど出ていなかったことと、とっさに頭を守ったのがよかったらしい。それでもバイクは修理が必要だし、身につけていた衣類とバックは散々たる状況だった。万が一、対向車線に弾かれたかもしれない可能性など考えたくもない。
備えつけの時計に目をやる。先ほど確認したときから時間はほとんど進んでいない。
「光、まだかな」
退院は午後からだが、一刻も早く春海の元へ行きたかった。春海の憔悴しきった顔を思い出しては自責の念に駆られる。事故の直後、春海に連絡してほしい一心でやむなく『HANA』へと電話をかけてもらったのに、結果的に春海を傷つけてしまった。
事故に遭ったのはたまたま運が悪かっただけだ。それでも、あれほど悲痛な顔を見て平常心でいることなどできない。
直接状況を伝えられたならきっと春海の不安も少なかったに違いなく、あれきり動かないスマホにため息を落とす。
「ただいま、はいこれ」
ようやく帰ってきた光の声に顔を上げる。光が片手に提げたトートバッグの中を確認しながら部屋の鍵を歩へと手渡した。
「母さん、用事があるみたいでもう少ししたら迎えに来るらしいよ。替えの服、適当に持ってきたけどいいよね」
「ありがとう。助かった」
「あゆちゃん、もう少し服買いなよ。
いくらなんでも少なすぎるわ」
「春海さん家に半分置いてるから」
「おう、まさかの同棲かよ」
「まだだよ」
光の言葉を流してカーテンを引く。腕を動かすとじんじんと傷が痛んだ。歯を食いしばって病衣を脱ぐ。
「そういえばハルミさんから連絡とかあった?」
「ううん。
でも、夕方には仕事が終わるはずだから行ってみる」
「あぁ、そうだよね。うん」
歯切れの悪い返事に、手を止めてカーテンを開けた。光の態度に心に抱いていた疑念が膨れあがる。
「昨日、なにかあったの?」
あれっきり病室に現れなかった春海がずっと心配だった。春海の性格上、黙って帰ることはしないだろうし、帰るにしても光や花江に伝言はできたはずだ。途中で戻ってきた花江のひどく傷ついたような雰囲気も気になっていた。
「あゆちゃん。
きっと事情があったはずなんだからね。変な推測とかしないようにね」
「いいから、早く」
何度も前置きを繰り返す光に焦れて続きを急かす。「本当に大丈夫かなぁ」と渋りつつも、その先を続けた。
「ハルミさん、多分泣いてた、と思う。
多分だからね」
「どうして!」
「それが分からないから言いたくなかったの。
アタシが見たときは花江叔母さんと彼氏さんが付き添ってて。ハルミさんはずっと俯いてたけど、二人ともすごく心配そうにしてた」
花江と勇太が付き添っていたということは、間違いなく春海になにかあったに違いない。ふと、春海が病室を出てから、後を追うように立ち去った母の姿を思い出した。そういえば、やけに春海の方を見ていたし、帰ってきた時の態度も妙におかしかった気がする。
「いい? 後でちゃんと確認しなよ。
見間違いかもしれないからね」
「うん」
まさか、という思いが頭をよぎる。冷え冷えとした声に光がぎょっと目を見張った。
◇
仕事を終えた春海は、歩の運ばれた病院近くの公園に向かった。あいにくの小雨模様では待ち合わせ場所としては不適切だったかもしれないが、ファミレスや喫茶店よりは話しやすいに違いない。
人影のない遊歩道を進むと、中央の大きな赤い屋根の下に里江の姿を見つけた。春海よりも早く着いていたらしい。畳んだ傘を片手に立ったまま出迎えられる。
「突然お電話したうえに、わざわざ出向いていただき本当にすいません」
「いえ、ちゃんと花江さんからも連絡がありましたし、そもそも会いたいと申し出たのは私の方ですから」
花江から『姉が非礼を詫びたいらしい』と連絡を受けたのが昼だった。何度かのやり取りの末、こうして会うことになったのだが、今にも倒れそうな顔色と目の下に隠しきれない隈を見つけてしまい、思わず同情の念を抱く。
「昨夜は本当に申しわけありませんでした」
「その言葉で十分です。顔を上げてください」
「いえ、なんとお詫びしていいか」
ひたすら謝罪を繰り返す里江にベンチを勧め、自分も隣に腰を下ろした。こうしてみると、恋人の母親というより年上の女性としての印象が強い。それでも、一切の言い訳をしない姿は歩と重なる。両肩を落として居心地悪く座る里江に「実は」と切り出した。
「今日応じたのは、里江さんと話がしたかったんです」
「わたしに?」
「はい、歩さんのことでおうかがいしたいことがあって。立ち入ったことをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
里江が戸惑いながら、歩の名前を繰り返す。言い知れぬ不安に怯えるように、春海との距離を少し広げた。
「歩さんとあまりうまくいっていないと聞きました。その理由を知りたいのです」
「そんなこと、あなたには」
「関係ない」と言いかけた口が止まる。里江の罪悪感につけ込んだ自覚はあるが、こんな状況でもない限り口を開いてはくれないだろう。
確認も兼ねて歩から聞いたことを伝えると、里江の顔色がますます悪くなっていく。
「もう、過去のことですから」
「本当にそう思われますか?」
どこか諦めたような雰囲気の里江に、冷静さを失わないよう必死で自分を戒める。
「あたしは歩が本気で家族と距離を置くというなら構いません。でも、歩はきっと望んでいない。そうでなければ、あんなに苦しむ必要はないはずです」
受け入れることさえ苦痛だったに違いない現実を、歩はどんな気持ちで打ち明けてくれたのだろう。
「里江さんが仰る通り、あたしは一番辛かった頃の歩を知りません。でも、彼女がどれだけ努力して乗り越えてきたかはずっと見てきました。
あたしと付き合うことも、将来のことも、高校に通うことも、全て歩自身が決めたことです」
里江から投げつけられた言葉を思い返しながら、落ち着けと何度も自分に言い聞かせた。いかに自分を好きだったか教えてくれた夜のことも、書き続けた履歴書の枚数も、悪夢にうなされ真っ青な顔で登校した朝のことも、この人に何一つ教えるつもりはない。
「歩は自分の居場所がないと話してました。両親はよくしてくれてるのに、自分のせいでぎくしゃくすると。彼女が苦しんでいるのは明白なのに、どうして手を差し伸べようとしないのですか? 歩はあなたの娘ですよね」
「やめてっ!」
激しい叫び声が辺りに響いた。里江の中のなにかに触れてしまったらしい、熱くなった思考が一気に冷静さを取り戻す。少しずつ距離を詰めるつもりが、踏み込み過ぎたことを悟る。
「ご、ごめんなさい!
里江さんを責めるつもりではなくて」
何度も首を振った里江が、よろよろと体を起こした。
「……責められて当然ですから」
ありありと後悔が滲む顔に、今までどこか敵のように思っていた里江への印象ががらりと変わる。もしかすると、里江も歩と同じく傷つき苦しんでいるのかもしれない。小さくほほ笑む表情は泣いているようにさえ見える。
「あの子は優しい子です。わたしを気づかって余計な苦労ばかりで。こんな親など捨ててしまえばいいのに」
「そんなこと言わないでください!
あたしから見た里江さんは、歩に愛情を持って接していました。歩だって、それは分かっているはずです」
よほど意外だったのか、里江が顔を上げた。伏せ目がちの両目が初めて春海を認識したかのように向けられる。その視線を真っ直ぐ見つめ返す。
「歩は自分自身があなたの重荷になっていると信じています」
「そんな……」
心当たりがあるのか、里江が初めて動揺を見せた。今すぐ問いただしたい思いに駆られるも、言葉を続ける。
「詳しくは話してもらえませんでしたが、あたしは彼女が思い違いをしている可能性があると思っています。
お願いします、歩ともう一度向き合ってもらえませんか?」
「……」
「たとえそれが事実で、そこにどんな理由があったとしても構いません。あたしも全力でサポートします。今の彼女なら、時間がかかってもきっと受けとめてくれるはずです」
深々と頭を下げて、里江を見つめる。雨粒の落ちる音だけが聞こえる公園で、里江が次に口を開くのを待った。