第234話 繋がる、重なる (6)
静まった廊下で待っていると、ロビーの奥からペットボトルを抱えた光が戻ってきた。
「花江叔母さん、早かったね。
よかったらお兄さんもどうぞ。あ、ハルミさんは温かいのにしといたから」
「ありがとう、光ちゃん」
光に礼を言ってペットボトルを受けとる。伝わる熱で温かくなった手の平を首元へと押しつけた。凝り固まった緊張が、血液とともにゆっくり流れていくようだ。あれこれと春海を気にかける光を見て、花江が驚いた顔となる。
「光、春海と面識があるの?」
「二人で会ったこともあるし、仲いいの。
ところで、こちらのお兄さんは?」
「東堂勇太さん。春海の元同僚で、今『HANA』で働いてもらってるの」
「花江叔母さん、そんなんじゃなくてさぁ」
「つまり、彼氏ってこと。
よろしくね」
「うわ、マジですか?
あの花江叔母さんに!?」
歩が無事だと分かったためか、会話にも自然と笑顔が広がる。騒がない程度に光と勇太が盛り上がる中、こちらに近づいてくる人に気づいた。小柄なスーツ姿の女性が目の前で立ち止まる。小さく会釈した女性が探し人を見つけるように全員を見回した。
「あの、本多歩さんのご家族の方でしょうか」
「はい……ええと、向こうにいるのが両親です」
首を傾げながら、光が肯定する。光の声が聞こえたのか、歩の両親が立ち上がった。近づく両親に女性がもう一度同じ質問を繰り返す。
「初めまして、おおすみ高校の若松と申します。学校に事故の連絡がありまして……あの、歩さんの様子は?」
「おおすみ高校、ですか?」
歩の両親の怪訝な反応に、若松が戸惑った表情を見せる。途切れた会話に小さく補足を入れた。
「歩の担任の先生ですよね」
春海の一言で周囲の視線が一斉に集まった。
◇
「そうでしたか。
これからも娘をよろしくお願いします」
情報を共有した雅史が幾度も謝罪を繰り返した後、深々と頭を下げた。
──歩が自分で決めたこととはいえ、一言でも両親に伝えるよう勧めるべきだったのかもしれない
強ばった雰囲気のままの里江の様子を見守りながらそう思う。
若松に普段の様子を訊ねる雅史の後ろで救急処置室のドアが静かに開いた。ガラガラと音を立て、点滴を持った看護師が大きなベッドを押してくる。
「処置が終わりました。今から上の部屋へと移動しますね」
真っ先に駆けよった両親に隠れて歩の表情は見えない。それでも、会話のすき間から歩の声が確かに聞こえる。思わずこぼした安堵のため息に花江が笑って頷いた。
エレベーターを出ると入院病棟へと移った。白いベッドを追いかけるように、花江たちと進んでいく。ベッドが部屋に入る瞬間、何かを探していたような歩と目が合った。
慌てたやり取りが聞こえた後、しばらくして看護師が出ていく。中の様子を確認した花江が春海を手招きした。勇太に押され、ぎくしゃくした足取りで部屋へと入る。
カーテンを開いたベッドの上に歩の姿があった。見慣れない病衣と左腕を覆うような包帯を目にして頭の中が真っ白になる。待ちわびたような歩の表情がまたたく間に驚きへと変わる。
「春海さん」
案じる声に引き寄せられ、よろよろと近づいた。そっと触れた手を優しく握り返される。
「ごめんなさい。真っ先に連絡したかったんですけど、スマホが壊れてしまったんです。私、春海さんの番号覚えてなくて」
繋いだ手の感触も、控えめな口調も、普段の歩と変わらない。歩がここにいる、その事実がじわじわと体の中に広がっていく。
「……あたしを、一人にしないでよ」
歩の下がりきった眉がぴんと跳ね上がった。
繋がらないスマホに何度コールしただろう。今朝のやり取りをどれだけ後悔したか分からない。歩の無事を喜ぶはずだったのに、出てきたのは自分本位の一言。嗚咽で切れ切れの言葉はそれでも歩の耳にきちんと届いたらしい。
「ごめんなさい」
あふれる涙で見えなくても、歩の声は優しかった。
◇
ようやく涙を止めた春海は入院患者用の談話室に移動した。既に面会時間は終わってひっそりと静まりかえっている。雨も風も止んだのか、水滴の残る大きな窓から薄明かりの月が見えた。人気のない部屋で長くて短かった一日をぼんやり思い返していると、雅史と里江が近づいてきた。
「鳥居さん、少しよろしいでしょうか」
「はい」
姿勢を正す春海と向かいあうよう二人が座る。無言で腕を組む雅史と落ち着かなさげな里江を前に、両手を膝に置いたまま待った。
「あの、あなたと歩の関係は……」
「歩さんとは一年前くらいからお付き合いしています。ごあいさつが遅れて申しわけありません」
恐る恐る訊ねた里江をまっすぐ見据える。病室で取り乱したことも重ねて深々と頭を下げると、顔に困惑を貼りつけた雅史が制した。
「確か義妹のご友人とお聞きしていましたが」
「はい」
歩との出会いと今に至る経緯、時折挟まれる質問にも可能な限り答える。時折頷く雅史とは対照的に里江の表情は一向に変わらない。否定的な言葉こそないが明らかに好意的でない雰囲気に、覚悟していたとはいえ身を斬られるようだ。
「……どうして、歩なんですか」
ふいに絞り出すような声が聞こえ、里江へと視線を向ける。俯いた表情は見えないがその両手は強くこぶしを握っている。
「あなたのおかげで歩が高校に通えるようになったことは感謝します。だからといって、なにも付き合わなくともよかったのではないでしょうか」
「ちょっと待ってください」
顔を引きつらせて春海が遮った。しかし、里江の思い詰めたような表情には届いてない。
「あなたほどの女性なら、年齢も経歴も相応しい相手なんていくらでもいるでしょう」
「里江!」
諫める雅史を無視して、里江が立ち上がる。ぶるぶると震えるこぶしのまま春海をにらんだ。
「あの子がどれほど大変だったか知らないのに……あなたに、あなたにうちの子のなにが分かるというの!」
「やめないか!」
里江がはっとしたように言葉を止めた。青ざめた顔で、二、三歩と後ずさりする。椅子を倒した音が合図となって逃げるように走り去っていく。入り口の向こうで花江が呼び止める声が聞こえた。
「義兄さん、なにかあったの?
春海?」
「あ、ああ、花江ちゃんか」
ぴくりととも動かない春海に不穏な空気を察したらしい。春海の元へと駆けよった花江の雰囲気がたちまち険しさを帯びる。
「姉さんをお願い。
春海は私が付き添うから」
「鳥居さん、本当に申しわけありません。あの」
「私は大丈夫です。奥様の方へ行ってあげてください」
平坦な声でそれだけ告げる。何度も謝罪を繰り返した雅史が里江の後を追っていくのを見送った。
「花江さんも大丈夫だから」
「春海、顔色が悪いわ」
離れてほしいと続けたのを無視して、花江が自分の上着を羽織らせ隣に座った。背中をさする手にすがりつきたい思いを必死で断ち切る。俯いた視線の先にスニーカーの靴先が見えた。
「花江さん、どうしたんだ?」
「それが、私にもよく分からないのだけど」
説明を聞いた勇太が春海をのぞきこんだ。わずかに視線が交わる。
「花江さんは歩に付き添っててくれ。おれが話を聞く」
「私も一緒にいるわ」
「だめだ」
強い口調で拒否する勇太を花江がきっとにらむ。
「どうして? 春海は私の友人なのよ!
姉さんになにか言われたのに黙っていられないわよ!」
「それこそ春海さんが望むはずないだろう。春海さんと歩の両親の話だ。花江さんが口出しすることじゃない」
勇太の声に花江がぐっと押し黙った。やがて、無言のまま花江が春海のそばから離れる。花江を見送ってからもしばらく立ったままだった勇太が、派手な音を立てて隣に座った。
「……嫌な役回りさせて、ごめん」
「ほんとですよ。
これで花江さんと拗れたら、一緒に謝りに行ってくださいよ」
がっくりと肩を落とす姿に申しわけないと思いつつ、その場を想像して少しだけ口元が緩んだ。堰を切ったように涙がぽたぽたと落ちていく。
「落ち着いたらちゃんと話してくださいよ。
ここまでして、なにもなかったなんて言わせませんからね」
奥歯を噛みしめながら何度も頷く。行き場のない悔しさが体中を渦巻いている。感情を洗い流すように今はただ涙をこぼした。