第232話 繋がる、重なる (4)
日曜の朝、スクーリングの予定を確認してからカーテン越しの外を見上げた。今朝は風が強い。上空を流れる分厚い雲は、奥に行くほど黒に染まっている。帰りはレインコートが要るかもしれないと考えていると、ベッドの奥で春海が身じろぎする気配がした。
「ごめんなさい、起こしました?」
「ううん、もうそんな時間だっけ?」
小さくあくびをした春海が、ゆっくりと起き上がる。寝起きの無防備な体が、窓を派手に揺らす音に反応した。
「歩、送るわよ」
「雨は降っていませんし、大丈夫ですよ」
「でも」
「夕方まで保ちそうですから。
たまにはゆっくり休んでください」
早起きが苦手ながらも、春からずっと付き合ってくれた春海に感謝を込めて断りを入れる。最近は忙しそうだったし、昨夜も遅くまで試験勉強をしていた。断る理由を並べる代わりにハグを求めると、渋りながらも両手を差し出してきた。
「いってきます、春海さん」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
優しい声に包まれると、たちまち温もりが恋しくなる。未練を断ち切って、学校へと向かった。
◇
学校に着くと教室には既に朝美の姿があった。膝に座る莉生に気づいて手を振る。
「おはよう、今日は莉生ちゃんも一緒なんだ」
「おはよ、多分騒がしくなるから今のうちに謝っとくわ」
「いいよ、全然気にしないで。
朝美、英語で教えてほしいところがあるんだけど」
ペンケースを取り出しながら莉生から朝美へと視線を戻す。朝美の伏せた目元に気づいて、手が止まった。
「なんだか元気ないよね。どうしたの?」
「ああ、たいしたことないって。
それより、リオが静かだから今やろう」
一瞬、朝美の表情が曇る。触れてほしくなさそうな雰囲気を気にしつつも、英語の話題へと移った。
昼休み、莉生もいることだからと三人で中庭に移動した。あいかわらず風は強く雲は多いが、雨は降っていない。ベンチに座る二人の前で、莉生が芝生の草を抜いて遊びはじめた。次々と草を放り投げる莉生を見ていると、隣で朝美がぽつりとつぶやいた。
「実は、昨日タクとけんかしたんよ」
「タクさんってパパさん?」
「そう。拓海っていうの」
歩に頷きながら、思い出したようにため息をつく。
「悪いって思うなら謝ってくれればいいのにさ、朝になって何もなかった態度にされるの。子どもの前で言い合いする姿を見せたくないっていうのが向こうの言い分なんだけど、ウチとしては気持ちのやり場がなくてさ」
「そっか、そうだよね」
詳しい事情は分からないが、もやもやする朝美の気持ちは理解できる。歩が頷いたことで、堰を切ったようにあれこれと愚痴をこぼしだす。予鈴のチャイムが大きく鳴って、朝美があっという顔をした。
「ごめん、ウチずっと一人で話してたわ」
「いいよ。朝美が大変だっていうのはよく分かったから」
「そんなこといってくれるのは歩だけよ。マジありがと」
「ちょっと朝美! ほら、莉生ちゃんが見てるから」
「ハグくらい、たいしたことないやろ」
「たいしたことあるの!」
落ち着かないハグになんとか距離を取ろうとすると尚も朝美が詰め寄ってくる。二人のじゃれ合いを不思議そうに見ていた莉生が朝美に近づいてきた。
「ママ」
「はいはい、リオもおいで」
「ごめんね、莉生ちゃん。ママは取らないから心配しないで」
母の顔になった朝美が笑いながら莉生を抱きかかえる。莉生の頬にキスする姿がまぶしくて、なぜか胸が詰まった。
「やばっ、急がないと授業始まる。
歩、急ごう」
莉生を抱えたまま、朝美がかけ足になる。揺れながら見る光景がおもしろいのか、莉生が声を上げて笑い始めた。満面の笑顔を見ていると、それだけで幸せな気持ちになってくる。
「急に笑ってどうした?」
「莉生ちゃん見てたらなんだか嬉しくて」
「なにそれ。リオ、スピードアップするよ!」
歩の笑顔がうつったように最後には朝美までが笑顔となった。
◇
チャイムが響く中、教室に入ると若松はまだ来ていないようだ。走りすぎて乱れた息を整えながら、朝美に耳打ちする。
「ねえ、朝美。
夏休みに入ったら遊びに行かない?」
「あぁ、夏休みねぇ」
「一日くらい時間を作って行こうよ。三人で行けばきっと楽しいよ」
「三人って、リオも連れてっていいの?
邪魔にならない?」
莉生の額をタオルで拭いながら、朝美が振り返った。
「もちろん。
私も莉生ちゃんと仲良くなりたい」
自分も関わりたい気持ちを告げると、唇を噛んだ朝美が俯いた。若松の姿が入り口に見え、会話が途切れる。
「ウチ、歩がいてくれてよかったわ」
号令のすき間から流れてきた声は少しだけ湿って聞こえた。
◇
「じゃあ、また来週。
リオ、歩お姉ちゃんにバイバイって」
「朝美も莉生ちゃんもまたね」
傘と莉生を両手に抱えた朝美と別れ、駐輪場へと向かった。横風に紛れて雨粒が当たる。春海にメッセージを入れ、レインコートを取り出した。強い風が駐輪場の屋根をめくるように吹き抜け、またたく間に大粒の雨へと変わる。
「……変な天気」
帰りのホームルームで荒天になるので気をつけて下校するよう若松が話していたのを思い出す。黒々とした空のせいで、夕方というのに普段よりずいぶん暗く感じる。
朝美は濡れずに帰れただろうか。校門を出る際にバス停を見ると人影は見えなかった。対向車のライトが大きな水たまりを照らしている。慎重にアクセルをふかしながら信号待ちの車の列へと入っていく。
春海からの返信、夕飯のメニュー、夏休みの計画──移動の時間は様々なことに思い巡らせる時間だ。打ちつけるような雨の中でも心は弾む。
ごうっと風が鳴った。揺れる車体に思わず前屈みの姿勢を取る。突然目の前に、大きな何かが飛びこんでくるのが見えた。反射的にハンドルを切る。
──間に合わない
右肩が硬い何かに弾かれた。車体がバランスを失い、次いで伝わる激しい衝撃に息が止まりそうになる。
なにが起こったのか分からないまま、雨が頬を濡らすのが分かった。