第229話 繋がる、重なる (1)
入学式から一月ほど経った五月半ば。日中の暑さを思わせるような雲一つない青空の下で、歩は額に汗を浮かべ教室へと向かう。
バックを背負いなおすと、腹の底に力を込めた。ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ。前を見つめながら思い出すのは、今朝もおまじない代わりにとハグしてくれた春海の温かさ。
──大丈夫、いける
「本多さん、おはようございます」
「おはようございます」
入り口から時間をかけて定位置となった席にたどり着くと、若松から声がかかる。近くで見守っていたらしく、若松が安堵する歩に共感するよう頷いた。
「学校には慣れた?」
「はい」
二度ほど靴箱の前で止まりかけたことがあるものの、歩の学校生活は概ね順調といえる。始めは一日学校で過ごすだけでも疲労困ぱいの状態だったが、最近は早起きして弁当を作る余裕もできた。楽しいと言えることはないけれど、学校は怖い場所ではない。そう思えるようになったのは、遠い記憶が少しずつ上書きされていくおかげかもしれない。
ぼんやりしながらチャイム待っていると、靴音と重なって小走りな足音が近づいてくる。「ほら、靴脱いで」と急かす声が聞こえ、リオが元気よく教室に入ってきた。
「おはようございます、野木さん」
「はよざいます」
「おはよう、リオちゃん」
黙ったままの女の子に「リオ、あいさつは?」と野木が背中を押す。後ずさりするリオに気にするなと笑って、若松が野木へと顔を向けた。
「二週間ぶりね。体調不良って聞いていたけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
「それならよかったわ」
大きなバックを抱えた野木が、歩の前へと腰を下ろした。その横顔になにげなく視線を向ける。目の下にはうっすらと隈ができ、やせたように見える。しばらく体調不良だったとはいえ、大丈夫そうには思えない。今まで接点のなかった野木に声をかけるべきか迷っていると、目が合った。
「あの……おはよう」
「おはよ」
眉を寄せて目を細める姿に、気づかいの言葉を飲みこんだ。チャイムが鳴って、始業を知らせる。親指をくわえたリオが、歩を一瞥したあと野木の隣に座った。
◇
スクーリングの授業は自主学習がメインとなる。教科書を見ながら課題を進め、分からない箇所を教師に教えてもらう。課題も自分のペースで進めるため、気負うことない。どの教科にも見覚えある部分があり、懐かしさと新鮮さを感じながら黙々とペンを動かす。
ふと、リオが歩の手元をのぞきこんでいることに気づいた。おもちゃやスマホを観て大人しくいることが多いリオだが、教室の雰囲気に慣れたのか少しずつ遊び回るようになることも増えた。小さな笑みを送ると、慌てたように野木の膝へと逃げていく。
「リオ!」
野木の叱る声に戻ってはくるが、座ることに飽きたようだ。あちこち出歩くリオと何度か同じやり取りが続いたあと、野木が離れようとするリオの腕を強く引いた。
リオがバランスを崩すと同時に、鈍い音が響く。机の角でどこか打ったらしく、火がついたように泣きだした。教室中に響くリオの声に、驚いた若松が近づいてくる。
「どうしましたか!?」
「あ、いえ……すいません。リオ!」
野木がなんとか泣き止ませようとするものの、泣き声は激しくなる一方だ。
「……すいません。
ちょっと出てきます」
俯きがちにそれだけ告げると、乱暴にバックを掴んで立ち上がる。逃げるように外へと向かう間も、リオの泣き声はずっと聞こえていた。
◇
授業の終わりと共に歩は外へ出た。近くのコンビニで買い物を済ませ、野木を探す。中庭を奥に進むと、屋根つきの休憩所のベンチに野木の姿を見つけた。リオを抱いているのか、微動だにしない。この世の全てを拒絶するような後ろ姿に、足が止まる。それでも、教室を去る間際の顔が忘れられなくて、勇気を振り絞った。
「あの」
歩の声に飛びあがらんばかりに驚いた野木が、顔を上げる。野木の赤い目元に、タイミングの悪さを察した。横抱きにしたリオは眠っていたらしい。隠すように庇ったリオの額に、ハンカチが当てられているのが見えた。歩が差し出した冷却シートをいぶかしげに見る。
「たまたま鞄に入ってたの」
子供のイラストがプリントされたパッケージに、苦し紛れの言い訳をつけ加える。次第に変わる表情に居たたまれなくなって、冷却シートをそばに置いた。
「よかったら使って」
精一杯の思いでそれだけ告げると、逃げ帰るように立ち去った。脳裏にちらつく野木のにらみつけるような表情を何度も振り払って教室へと向かう。一緒に渡すつもりだったチョコレートの角がポケットの中でチクチクと刺してくる。
結局、野木がその日の授業に現れることはなく、歩にとって後悔しか残らない一日を終えた。
◇
憂うつさを抱えて臨んだ翌週の朝。気持ちを切り替えたつもりでいても、足取りは自然と重くなる。
「おはよ」
後ろからの声に振り向くと、野木がいた。自分に向けてのあいさつと分かって、慌てて同じ言葉を返す。
「これ、あげる」
差し出されたのは食べきりサイズのチョコレート。チョコには『Thank you』と手書きのポップが付いている。冷却シートのお礼だと気づいた歩に、野木がそっぽを向きながら様子をうかがっている。
「ありがとう」
「……ウチこそ、ありがと」
くすぐったい気持ちは同じだったのか、顔を見合わせるとぎこちなく笑いあった。右頬のえくぼに、野木の雰囲気が親しみやすいものへと変わる。
「今日、リオちゃんは?」
「預けてきた。
あの、リオがいつもごめん」
「ううん、全然迷惑じゃないよ。こっちに来てくれても大丈夫だから。むしろ、すごく嬉しい」
「でも、やっぱり迷惑だから」
「そんなことないって」
肩を並べながら、交わす言葉が少しずつ増えていく。気負わず教室に入ったのに気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
◇
「春海さん、チョコ食べません?」
「え、いいの? 食べたい」
スクーリングを終えた夜、コーヒーと共に並べたチョコを見て、春海が目を丸くした。
「歩、二つも同じものを買ったの?」
「いえ、一つはもらったんです。せっかくだから、私も食べようかなって」
「ふーん、誰にもらったの?」
苦手なチョコを前に、なぜか嬉しそうな歩を不思議そうに春海が見る。丁寧に剥がしたポップをペンケースにしまいながら、歩が笑顔で答えた。
「友だちです」