第228話 新たな年の始まり (13)
仕事を終えると、車の中で歩にスタンプを送る。ふと、ルーティンとなった動作が、今まで一度たりとも欠けなかった事実に気づいて手を止めた。きっと、欠かさずにメッセージを送る歩の律儀さゆえだろう。以前、光に『自覚がない』とからかわれたことを思い出し、緩む口元を手で隠す。それでも、今日一日、まとわりついていた寂しさは消えてくれない。
「入学式、行きたかったのにな」
今日の入学式には当然ついていくつもりだったのに、事前に断られてしまった。付き添いの意味もあったが、それ以上に入学を祝いたかったのが本心だ。そう訴えても珍しく譲らなかった歩の態度に、行き過ぎたお節介だったかもしれないと不安になる。そもそも、歩は大人で付き添いは必要ない。
なによりも、
「あたし、家族じゃないしなぁ」
恋人であって、家族ではない。当たり前の事実なのに、なぜか心へのダメージが大きくて困る。
「せっかくのお祝いの日なのに……」
二人で一緒に、そう願った一年の始まり。全てを共にするつもりはないし、自分の思いを押しつけるつもりもない。それでも、心に刺さった小さな棘は、なかなか抜けてくれない。歩と会うまでには気持ちを切り替えようと心に決めて、車を発進させた。
◇
インターフォンが一度鳴って、歩の訪れを知らせる。
「ただいま、春海さん」
「おかえ、り」
入学式は午前中で終わったはずなのに、歩の姿は今朝のままだ。目を丸くする春海に、歩が「もう少ししたら、着替えますから」とはにかんで答える。
「なにかあったの?」
「あったというか、ちょっと……」
言葉を濁す歩が、困ったように頭をかく。ふと、歩の左手に見慣れない紙袋が見えた。さりげなく隠すしぐさに、サプライズであることを察した。挙動不審な態度にも納得すると、紙袋の中身を楽しみにしながら室内へと促した。
◇
「春海さん」
「どうしたの、歩?」
リビングに入ると同時に、歩に呼び止められた。素知らぬふりで振り向くと、歩が小さな花束を胸の前で抱えている。真剣な表情に作っていた笑みが消える。歩が春海をまっすぐに見つめた。
「私、高校を絶対に卒業します」
突然の決意表明にとまどいながら、歩と花束を交互に見る。優しい色でまとめられた花束はまるでブーケのように思えて、心臓が早鐘を打つ。
「卒業したらおおかみ町に行きます。向こうで仕事を探すつもりです」
「歩、それって……」
「春海さんに相談もせずに、勝手なことを言ってるのは分かってます。でも、私はこれから先も春海さんと一緒にいたい。そして、春海さんも同じ気持ちだと信じています。春海さんが遠距離を不安に思うなら、私があなたのそばに行きます。
私、今は何もできないけど、必ず春海さんを支えられるようになりますから、少しだけ時間をください」
言葉を切った歩が、そっと花束を差し出してくる。
「私が卒業したら、おおかみ町で一緒に暮らしてもらえませんか?」
返事をしなければと思っているのに、感情の固まりがのどにつっかえて言葉が出てこない。黙ったままの春海を安心させるように、言葉を続ける。
「返事は三年後で構いませんから、ゆっくり」
それ以上言わせまいと、歩に抱きついた。よろけた歩が後ろに下がりながらも、抱きとめてくれる。プロポーズに許可を求めようとする律儀さも、返事を三年も待つ悠長さも、いかにも歩らしくて笑ってしまう。胸元のネックレスが重なる感触に、止めていた涙腺が決壊した。
「……返事なんて、イエスに決まってるでしょう」
泣き笑いの顔を見られないようにしながら、やっとのことで告げる。
「本当に? 本当ですか?
やったぁ!」
歩に何度も頷いてみせると、春海を抱きかかえたままその場をぐるぐる回り出した。
「ありがとうございます。すごく嬉しい!」
「あ、歩っ!」
春海の悲鳴に回転は止まったものの、まだまだ喜び足りないらしい。頬ずりしながら今にも飛び跳ねそうな様子に、歩の全身から嬉しさが伝わってくる。
「一緒に住めたらいいなって、ずっと夢見ていたんです。私、約束が守れるようにがんばりますね」
互いの進路を決めたあの日以来、話し合いは途切れたままだった。多忙を理由に後回しにしていたのは、歩の人生を巻き込むことにためらいがあったからだ。口に出せない思いを込めたリングの意味を察してくれたのだろうかと思ったものの、違ったらしい。それでも、同じタイミングで、同じ気持ちにたどり着けたことがどうしようもなく嬉しい。手を繋ごうとして、持ったままの花束に気づいた。
「歩。これ、もらっていい?」
「でも、さっき振り回してしまって」
「全然崩れていないし、大丈夫よ」
差し出された花束を両手で優しく抱きとめる。繊細で可憐な花をいくつも合わせた花束は、歩らしくて顔がほころぶ。
「バラも考えたんですけど、ちゃんと卒業してから改めて申し込もうと思って。それに、春海さんのイメージにぴったりでしたから」
「……ありがとう」
自分に対するイメージを意外に思いながら、心の奥を見透かされたようにどきりとする。年齢を重ねても残る、柔らかくて傷つきやすい部分は決して見せてはいないはずなのに、察してくれるのは歩だからかもしれない。
「私こそ、ありがとうございます」
そう思うのは、返ってくる言葉がいつだって愛情にあふれているから。伝えきれない思いを込めて、もう一度歩を抱きしめた。
ストック切れのため、次回からしばらく不定期更新になるかもしれません。