第226話 新たな年の始まり (11)
またたく間に終わった冬を惜しむこともなく、新年度が始まった。スーパーの売り場は桜色に染まり、店内のBGMも明るい曲へと変わっていく。何度も確認した退勤の時間をようやく迎え、急いで自宅へ向かった。
ここ数日緊張しながら開くポストに、今日は見慣れない大きな封筒が入っている。取りだすと『おおすみ高校』の文字が目に入った。続く『入学試験関係書類在中』の言葉に、息が止まりそうになる。その場で開く勇気が持てず、部屋へと入った。息を整え、正座をしてから、封を切る。震える手で、何枚もの書類を取り出す。
「……受かってた」
少し厚みのある紙には、自分の名前と確かに『合格』の文字がある。入学できた安堵よりは、これから始まる高校生活に、否が応でも向き合わなければならないという不安の方が大きい。それでも、前に進むと決めたからには、がんばるしかない。真っ先に成すべきことを思い出して、スマホを握った。
『もしもし、歩?』
「春海さん、今日、届きました。
受かってました」
ずっと待っていたのだろうか、ワンコールで繋がった春海の声は、やや硬い。少し遅れて、明るい声が響いた。
『おめでとう!
よかったわね』
「ありがとうございます」
入学試験は簡単な書類選考であって、ほぼ落ちることはないと聞いていた。それでも、手放しで喜んでくれる春海の声を聞くだけで、嬉しくなる。
『今から、そっちに行っていい?』
「はい、待ってます」
弾む声につられるように、明るい声で通話を終えた。
◇
少し遅めに到着した春海の手には、小さな四角い箱があった。寄り道して買ってきてくれたらしく、白いショートケーキには、わざわざ『おめでとう』と書かれたプレートが飾ってある。
「ここのケーキなら、歩も好きだったから」
「ありがとうございます」
テイクアウトの料理とともに並ぶケーキが、まぶしく映える。つい先日も誕生日を迎え、祝われるばかりの立場だが、春海の時も心を込めて祝おうと決めてからは、素直に喜べるようになった。
「春海さん、後で一緒に入学手続きの書類を確認してもらえませんか?」
「今でも構わないわよ?」
「ご飯食べてからで、大丈夫です」
記入の煩雑さに早くもうんざりした気配が伝わったのか、春海が笑って同意した。
◇
提出書類を一通り確認し終えると、春海が丁寧に封筒へと戻す。
「高校か、懐かしいなぁ」
「春海さんの高校時代って、どんな感じでしたか?」
少しだけうらやましそうな響きに気づくと、春海が遠くを見るように目を細めた。
「そうね、勉強ばかりだったけど、文化祭や修学旅行のイベントはすごく楽しかったな。テスト期間中に友だちと勉強するって親に言って、遊びに行ったりとかしてたし、苦手な科目がさっぱり分からなくて、授業中はよく寝てたっけ」
「本当ですか? 意外です」
「そう?
あたし、結構不真面目だったわよ」
春海の性格なら、きっと、友人も多かったのだろう。楽しそうな高校生活を容易に思い浮かべられる。
「歩も、楽しい高校生活が送れたらいいわね」
「はい」
たとえ、学校生活を楽しめる可能性は低くとも、春海がそばにいてくれる。今はそれだけで十分だと、大きく頷いた。
◇
昨日までの強い風が、嘘だったかのように感じられる穏やかな春の朝。歩は、おおすみ高校に来ていた。初めて袖を通した、スーツのつるつるした感触が落ち着かない。フォーマルの場でも使えるようにと、春海と一緒に選んでもらったものだが、着こなすのはまだ時間がかかりそうだ。
時間に余裕を持って来たが、校門前には既に人の姿が見える。どうやら入学式の看板の前で、写真を撮っているらしい。両親と並んで見せる笑顔に、過去の自分が重なる。
自分も高校の入学式で記念写真を撮ったはずだが、どんな表情をしていただろうか。曖昧な記憶には、常に痛みが伴う。襲いかかる思い出を消すよう、軽く頭を振った。一人で立っていると、心細さばかりが募る。
──やっぱり、春海さんに付いてきてもらいたかったな
自分から春海の帯同を断ったくせに、すぐに弱気になってしまう。残念そうにしながらも、笑顔で送り出してくれた春海を思いだす。胸のリングに触れてから、校門をくぐった。
◇
受付を済ませ、体育館へと足を踏み入れた。バレーコート三面ほどの会場には椅子が並び、壇上には大きな花が活けられている。体育館の広さに圧倒されていると、腕章を付けた男性が、歩へと近づいてきた。
「新入生の方ですね。
座る席は分かりますか?」
胸につけたロゼットで識別したのか、スーツ姿の歩が新入生であることに違和感はないようだ。
「ええと、C-2です」
「C-2は、こちらです」
体育館の中央付近へ案内してくれた男性に、礼を言って腰を下ろした。ふと、前の席のまぶしいほどの金髪が目に入る。緩く波打つ髪のすき間から見えた、ピアスの数に釘付けとなった。
あれだけ付けて重くないのかと見入っていると、前の女性が振り返った。歩の視線に気づいたのか、眉間に軽くしわがよるのを見て、慌てて軽く頭を下げる。再び動かなくなった後ろ姿に、そっと緊張の息を吐きだした。周りをうかがうと、大半の人が、談笑するわけでもなく静かに座っている。おおすみ高校には制服の規定がないため、新入生の服装も自由だ。画一的でない雰囲気に、少しだけ呼吸が楽になる。大勢の中に自分を溶け込ませるよう、始まりを待った。
◇
長い祝辞を終え、ようやく式が終わった。新入生の心情を表すように、パイプ椅子の軋む音があちこちから聞こえてくる。
「これより教室で、受講登録の手続きを行います。地区ごとに案内しますので、移動してください」
目印のプレートを持った教師が、次々と前に並びはじめる。歩の列に立ったのは小柄な若い女性だった。左側に柳田の姿を見つけたが、歩の位置からかなり離れている。
「A-1、伊田地区の人は、立ってください」
案内に、一番右の列が立ち上がった。先ほどの祝辞で、県内各所に分校があると聞いていたが、どうやら新入生は地区ごとに分けられているようだ。
「C-1、高之山地区はこちらです」
新入生の三分の一ほどの人数が、一斉に立ち上がる。後ろ姿を見送っていると、歩たちの前の女性が、声をかけた。
「C-2の皆さん、行きましょうか」
席を立つと、前後の四人が後に続く。男性二人に、女性が二人。人数の少なさに内心驚くも、この五人が少人数クラスらしい。前にならうように体育館の靴箱前まで来ると、教師が振り向いた。
「C-2の皆さんは、このまま中庭から南校舎の教室まで移動します。体調の悪くなった人は、いませんか?」
一人ひとりの顔を確認するように見回してから、ゆっくりとした足取りで、体育館を出る。
降りそそぐ春の日差しが、温かい。日の光に励まされるように、教室へと向かった。