第223話 新たな年の始まり (8)
実家から持ち帰った大量の食品を冷蔵庫に詰めこんでいると、インターフォンが鳴った。
「はーい、開いてるわよ」
時間ぴったりの来訪に、歩らしさを感じながら、玄関へと向かう。そっとドアが開いて、歩が顔をのぞかせた。
「こんばんは、おじゃまします」
「お疲れさま、上がって」
今日は一段と冷えるらしい。外からの冷気をまとった歩は、白い息をしている。歩の手を取ると、案の定指先まで冷え切っていた。
「春海さんが、冷えちゃいますよ」
「いいの」
遠慮する素振りを見せながらも、繋いだ手を離そうとはしない。頬に手を伸ばし、至近距離で歩を見つめた。歩の目は、いつだって雄弁に彼女自身を語る。まっすぐに見返す目からは、負の感情が見受けられなくて、胸をなで下ろした。
「どうしました?」
「なんでもない。
それより、歩に温めてほしいな」
そのまま顔を近づけて、唇を重ねる。触れた唇までも冷たくて、温もりを分け合うよう押しつけた。背中に回った手に身を委ねると、息苦しいほど抱きしめられる。
こぼれる熱い息に、歩の体温がぐっと上がった気がした。もっと求めてくれてもいいのに、と頭の片隅で思いながら、一生懸命に返してくれる姿に愛しさが募る。二人を阻む分厚いダウンにもどかしさを覚えた頃、ようやく唇を離した。
「おかえり」
「……ただいまです」
ささやき声で交わす言葉に、歩が照れたように笑う。たったそれだけで、離れていた日常が戻ってくるから不思議だ。手を繋ぎ、部屋へと戻った。
◇
数日離れていた反動か、煽ったキスのせいか、めずらしく歩が離れようとしない。向かい合うように座ったまま、細い体を緩く抱きとめる。
「どうした? 寂しかったの?」
軽い冗談のつもりが、無言で頷かれた。ふと、帰省が、楽しい時間ではなかったであろうことを思い出す。話のきっかけを思案していると、歩が顔を上げた。
「春海さん、話を聞いてもらえますか?」
「もちろんよ」
ハグを解くかわりに、右手を繋ぐ。「楽しい話ではないですけど」と前置きした歩が、口を開いた。
「私、両親というか、母親とずっとぎくしゃくしてて。なんとか普通に接しようとは思ってるけど、どうしても無理なんです」
覚悟を決めた歩が、静かな口調で話し始める。今まで踏み込むことのなかった過去に、注意深く言葉を選んだ。
「お母さんとの関係が拗れる原因って、なにかあったの?」
「一番の原因は、多分、私が学校に行けなくなったからです。母は、仕事が生きがいみたいな人で、毎日大変ながらも楽しそうに仕事をしていました。だけど、私のせいで、仕事を辞めることになってしまって」
「それは違うでしょう」
思わず、飛びだした否定の言葉に、歩がゆっくり首を振った。
「いえ、事実です。
部屋から出てこない私を心配して、仕事を度々休むようになった後、結局、辞めたって聞きました。それに、本人にも確認したことがありますから」
歩が、重い息を吐きだす。震えだす声を止めようとすると、大丈夫だとばかりに首を振った。
「一度、言い合いになった時、母に言ってしまったんです。『私が、重荷なんでしょう』って」
思いがけない言葉が飛び出てきて、息を飲んだ。悪い予感に、その続きをためらう。春海の曇った表情を見て、歩が悲しげに笑った。
「母は、一瞬、黙りました。その後、否定しましたけど」
どんな事情があったにしろ、その時の母親の態度が答えだったのだろう。怒りとやるせなさの混じった感情を腹の奥に押しこんで、続きを促す。
「何年も前のことなのに、母と向かいあうと、その時のことを思い出してしまいます。
私が、家族の雰囲気を悪くするせいで、光にも迷惑をかけてばかりだし、いっそのこと、離れたほうがいいのかもしれません」
「歩は、仲直りしたいとは思わないの?」
「分かりません」
聞こえた声は、痛みに耐えるように細い。
「母は、私がどんな態度を取っても、変わらずに接してくれてます。申し訳ないと思ってるのに、うまく応えられなくて……」
言葉を切った歩が、苦しげに息を吐く。
「あの時、何事もなかったようにすればよかった。私に強い心があれば、高校を辞めずに済んだなら、きっと誰にも迷惑はかからなかったはずです。全ては、私のせい、私が」
「違うわ」
思い詰めるような声を遮ると、うつろだった瞳に光が戻った。
「学校に行けなくなったのは、歩の心が弱かったからじゃない。歩は、被害者なのよ。なにもかも自分の責任にしないで」
「本当に、そう思ってくれますか?」
「当たり前でしょう。
歩は、悪くないもの」
「そう、なのかな」
たった一つの出来事が彼女に与えた影響は、あまりにも大きい。不安げに揺れる瞳を励ますように、意識して明るい声を出す。
「ねえ、歩。過去の歩がいるから、あたしたちは会えたの。そう考えてみない?」
「……そうですね。悪いことばかりではないですね」
歩が、春海の言葉を噛みしめるように頷いた。その表情に、先程までの憂いは見当たらない。
「春海さんに話したら、楽になりました。
母のことは、しばらく考えてみようと思います」
「そうね、ゆっくり考えてみて。
あたしも、話はいつでも聞くから」
「なにか飲もうか」と立ち上がる春海に並び、歩もキッチンへ移る。繋いだままの手を小さく握られて、ぼんやり眺めていたケトルから視線を移す。
「春海さんがいてくれて、よかったです」
えへへ、と笑う歩につられ、春海も笑顔になる。歩のこれからが、明るいものであってほしい、そう強く願う。
「歩、明日は初詣に行かない?」
「いいですね。
そういえば、食事会はどうでした?」
「あっ、そうそう!
聞いてほしいの!」
明るい未来を作るのは、自分たち自身だ。それでも、わずかな可能性すらかき集めたくて、神様に歩の幸せを願おうと心に決めた。
次回の更新は1月13日の予定です。
今年一年、この作品にお付き合いいただき本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いします。