第222話 新たな年の始まり (7)
「春海、ここに置いてあった年賀状知らないか? 一枚も見当たらないんだが」
「年賀状? その辺にないの?」
父の言葉に、こたつで寝そべったまま、頭だけ上げる。おもちゃや本が、これでもかと散乱したリビングで、先ほどまで蓮が広げていた乗り物図鑑が目についた。
「そういえば、さっき、蓮が持ってたかも」
「蓮? 年賀状なんて集めて、なにをする気だ。
蓮! 母さーん、蓮はどこにいる?」
困ったやつだとぼやく声は形ばかりで、顔は笑っているに違いない。母を呼びながら大股で立ち去った父の足音に、やれやれと思いながら、再びこたつにもぐりこんだ。
「おい、春海。
寝るなら部屋に行け」
低い声に起こされると、ダウンを羽織った兄が邪魔だと言わんばかりに見下ろしている。大柄な体型もあって、下から見上げるとなかなかの迫力だ。
「うるさいなあ、今、ちょうど寝かけてたのに」
「お前がここで寝ると、皆が気を使うし、邪魔なんだよ」
「誰もいないからいいじゃない。あたし、ものすごーく疲れてるの。兄貴こそ、自分の家があるのに何しに来たのよ」
「別に用がなくてもいいだろうが。それより、こんな散らかってるのに、なにも思わないのかよ」
「やめなさいよ、大樹」
むっとして言い返そうとする春海に、涼やかな声が割って入る。いつの間に来たのか、義姉の亜衣が兄の隣にいた。
「ハルが、今まで蓮と航の面倒みてくれてたのよ。片付けは私がするから、あの子たちと遊んであげて」
「お、それは悪かったな。
片付けなら俺がする。亜衣は座ってくれ」
「それじゃ、お願いしていい?
あの子たち、外にいるはずよ」
「ああ、任せとけ」
「ありがとう、大樹」
小顔いっぱいの笑顔は、亜衣の必殺技だ。長年、同じやり取りを何度も見せられて、すっかり慣れた春海とは違い、兄の顔がだらしなく緩む。あきれた視線に気づいた大樹が、そそくさと片付けを終えると、外へ出ていった。後ろ姿でも分かる上機嫌な態度を、感心しながら見送る。
「あのぐうたら兄貴を、あそこまで動かせるのは、さすが亜衣ちゃんとしか言いようがないわ」
「いやねぇ、人聞きの悪い」
起き上がった春海の隣に座った亜衣が、ころころと笑う。
生活面において、春海に負けず劣らずだった兄は、亜衣と結婚してからその態度が百八十度変わった。最初は不思議に思っていたものの、兄夫婦と接するにつれ、兄の変化は亜衣の手腕によるものだ、というのが春海と両親の見解だ。
「ハル、なにか飲む?」
「あたしがするからいいわよ。コーヒー飲めるの?」
「まだ、無理そう。お茶を三倍くらい薄めてほしいかな」
「それって白湯じゃない」
三人目を妊娠した亜衣は、つわりがひどいらしい。ようやく起き上がれるようになった義姉を気づかって、立ち上がる。ポットのそばのカフェインレスコーヒーに感心しながら、薄いお茶を淹れる。
「ありがと、ハル」
向けられた笑顔に「どういたしまして」と返して、お茶をすする。
「せっかくのお正月なのに、子守りばかり任せて、ごめんね。
あの子たち、大変でしょう」
「あたしも、遊ぶつもりで帰ってきてるから、気にしないで。大変なのは否定しないけど」
「そうよね。
小さな体のどこに、あのエネルギーがあるのかしら」
肩をすくめた亜衣が、話題を変えるように「ところでさ」とにじり寄った。
「そのネックレス、ずっとつけてるわよね。
誰かのプレゼント?」
確信を持った質問に「まあね」とあいまいに頷く。春海の返事に目を輝かせた亜衣が、大げさに両手を頬にあてた。
「やっぱり!
どんな人? 優しい? 写真とかないの?」
「そんなに答えられないわよ。
それに……」
詰め寄る亜衣に笑って、ストップをかける。トーンの下がった語尾になにかを感じたのか、亜衣が表情を変えた。
「ひょっとして、ちょっと困った立場の人だったりする?」
「ううん、そういうことじゃないの。
ただ、聞いたら驚くだろうなって思って」
「確かに驚くかもしれないけど、そこまで言われたら余計に気になるじゃない。
ほらほら、お義姉さんに話しちゃいなさいよ」
「ちょっと亜衣ちゃん、狭いって!」
ぴったり身を寄せてきた亜衣に、悲鳴を上げる。亜衣とは高校からの付き合いで、今までも色々な秘密を共有してきた仲だ。ようやく覚悟を決めると、姿勢を正す。春海につられて、亜衣も真剣な顔になった。
「相手の人がね、その、女の子なの」
「え、女の子?」
目を丸くした亜衣が、再び驚きの声を上げる。
「彼氏じゃなくて、彼女ってことか。
うわ、すごい! もしかして、蓮たちと映画を観たっていう人? 残念、やっぱり行けばよかった!」
次々と表情を変えた亜衣が、はっと動きを止める。
「女の子っていうことは、年下よね?」
「あ、うん。
確か九つ下だけど」
「ちょっと待って、ハルが私の二つ下だから……
大変! ハル、どうしよう!」
「亜衣ちゃん、落ち着いて」
驚きのあまり、バシバシと肩を叩く亜衣を、笑いながらなだめる。想像した反応との違いに、どうリアクションを取っていいか分からない。困ったような態度に、亜衣が疑問の顔になった。
「一番驚くポイントが年齢って、なんだか拍子抜けしちゃった。あたし、こう見えて、かなり勇気だしたのよ」
「いやいや、もちろん全部驚いたわよ」
亜衣が、全力で否定しながら「でもね」と続ける。
「今までのハルの相手って、年上で、向こうがグイグイ引っ張るってタイプの人ばかりだったじゃない。今度の人は、性別も年齢も、真逆のタイプよね」
「確かに、そうかも。
どちらかというと、ほっとけない感じだし」
「でしょう。
だから、すごく意外だなって思ったの」
にこにこと笑う亜衣を前に、心にのしかかっていた不安が、ぐっと軽くなる。亜衣と話していると、いつだって自分の悩みが些細なことに思えてくるから不思議だ。
「あたし、歩となら、ずっと一緒に過ごせる気がするの」
「そうなんだ」
「もし、付きあってるって言ったら……母さんたちも、喜んでくれるかな」
「そうねえ」と間延びした声が、考えるように少しだけ途切れる。
「驚くかもしれないけど、きっと大丈夫よ」
「そうかしら」
「だって、あ、なんでもない」
いつになく弱気な春海に、何かを言いかけた亜衣が、言い直した。
「ハルはさ、今までも散々驚かせてきたじゃない。今年も、また転職を考えているでしょう」
「別に、驚かせるつもりはないけど」
今までの行いも、自分ではよく考えた上での行動なのだが、報告される方にとっては、いつだって寝耳に水らしい。「あんたは、また……」と呆れた目で見ていた母を思い出す。
「大丈夫。ハルの武勇伝は、今に始まったことじゃないわよ」
「武勇伝ってなによ」
ようやく笑った春海に、亜衣が笑顔を見せる。
「それに、わたしたちのこともあったわけだしさ。万が一、最初はうまくいかなくても、なんとかなるって」
大樹と亜衣が結婚したいと申し出たのは、高校の卒業式当日だった。「さすがに早い」と反対する双方の両親を説得して、大学生活と同時に新婚生活を始めた二人に比べたら、自分と歩の付き合いは穏やかな方だろう。一時期は、荒れに荒れた鳥居家の過去を思い出して、遠い目になる。
「あの時は、ごめんね。亜衣ちゃんが、うちの男どもに散々振り回されてさ」
「あはは、そっちはいいの。
今は、ハルの話でしょう」
「だからさ」と亜衣が、顔を寄せた。
「ハルの相手のこと、もっと聞かせてよ」
「うーん、どうしようかなぁ」
「いいじゃない」
亜衣の催促に渋りながらも、口元が緩んでしまうのはしかたないだろう。なにしろ、聞いてほしいことは、いくらでもあるのだから。