第219話 新たな年の始まり (4)
「歩、入るわよ?」
「あ、うん」
花江の声に、ベッドから起き上がる。帰り支度を済ませたらしく、花江がコートを片手に部屋へと入ってきた。
「花ちゃん、帰るの?」
「ええ、ずいぶん長居しちゃったしね」
花江が、室内を見回す。机にチェスト、ベッドだけの部屋は、ここ数年、触れることすらない。
「はい、これは歩に。
光には渡したから」
「私、お年玉なんて必要ないよ」
「私が渡したいの。
最近は、お正月しか会わないし、こんな機会でもないと、あげれないから。
だから、受けとって?」
「それなら、ありがとうございます」
「よかった」
差し出されたポチ袋を、両手で受けとる。にこにこと笑う花江が、そっと頭を撫でた。
「お母さんと、少しは話した?」
「話すことなんてないよ」
「なに言ってるの。たくさんあったでしょう」
台風で農園を辞めたこと、職業訓練に申し込んで断られたこと、失業手当をもらいながら、バイトだけで生活していること。全て花江に聞かれるまでは、言わなかったことだ。黙っているつもりはなかったが、自分から話せなかったのも事実で、目を見開く両親の顔を思い出して苦い気持ちになる。
『姉さんも、歩と話せばいいのよ』
母に「話してくれればよかったのに」と言われ、俯いた歩に味方してくれたのは、花江だった。
「だって、迷惑かけたくないから」
「誰も、そんなこと思わないわよ」
花江に反論しそうになるのを、ぐっと我慢する。
頭の中で警鐘が鳴るように、思い出したくない過去が、よみがえった。苦しさで、心臓が握りつぶされそうになる。
「姉さんにも、困ったものね」
ぽつりと聞こえた言葉に、現実へと戻された。眉を下げた花江が、どこか遠くを見つめている。視線に気づくと、優しくほほえんでくれた。
◇
「あら」
花江の指が、首のチェーンに触れた。思わず胸元を押さえた歩に、事情を察したらしく、花江が笑って尋ねてくる。
「春海にもらったの? 見てもいい?」
「うん」
そっと引き出したリングを、花江がまぶしそうに見つめる。
「すてきじゃない。
せっかくなら、服の上からつければいいのに」
「普段は、つけてるから」
苦笑した花江が、ネックレスから手を離して、隣に座った。
「そういえば、春海とは、どう?」
「どうって、言われても」
「けんかとかしてない?」
「しないよ」
「そうよね。春海のあの様子なら、そんな事にはならないか」
花江が、口に手を添えて笑う。おかしくてしかたないといった表情に、目を丸くした。
「春海さんが、なにか言ってたの?」
「大した話はしてないわよ。ただ、表情とか、雰囲気とかで、なんとなくね」
話の内容は気になるが、それ以上、踏み込めそうにない。「よかったわね」と言われて、無言を貫く歩を、花江がほほ笑ましそうに見つめる。
「明日は、やっぱり来れないの?」
「うん、しばらくバイトが続いてるから。
三人で楽しんできて」
「あまり、無理しないようにね。困ったことがあったら、いつでも連絡するのよ」
「分かった。ありがとう」
「それじゃ、そろそろ帰るわね」
玄関まで見送るつもりで、部屋を出る。先に階段を下りていた花江が、途中で振り向いた。
「歩、内緒の話よ」
「うん?」
階下をちらりと確認した花江につられて、声をひそめる。
「私、勇太くんと付き合ってるの」
「えっ!?」
大きくなった声に、慌てて自分の口をふさぐ。口元に指を当てた花江の表情から、どうやら冗談ではないらしい。
「いつから? どうして?」
「付き合いはじめたのは最近。
理由は、その、言わなくても分かるでしょう」
「そうなんだ」
珍しく口ごもる花江を、まじまじと見つめる。相手が勇太というのも、衝撃的だったが、なにより、恋愛の気配すら感じたことのなかった花江の告白に、ただ驚くばかりだ。
「花ちゃん、ちゃんと恋愛する気があったんだね」
「失礼ね。
私も色々考えたのよ」
「ごめん、ごめん」
頬を膨らませた花江が、すぐに表情を戻す。
「歩には、一番に伝えたかったの。姉さんたちには、また日を改めて話すわ」
「分かった。
花ちゃん、よかったね。おめでとう」
「ありがとう」とほほえんだ花江が、片目を閉じる。
「春海には明日伝えるつもりだから、内緒にしててね」
明日が待ち遠しいと笑う花江の横顔は、見たことがないくらい明るかった。